2010年11月29日月曜日

ウィリアム・モリス










 William Morrisは、19世紀イギリスの詩人でありデザイナーである。多方面で精力的に活動し、それぞれの分野で大きな業績を挙げた。「モダンデザインの父」と呼ばれる。

 ヴィクトリア朝のイギリスでは、産業革命の成果により工場で大量生産された商品があふれるようになった。反面、かつての職人は、プロレタリアートになり、労働の喜びや手仕事の美しさも失われてしまった。そこでモリスは、モリス商会を設立し、インテリア製品や美しい書籍を作り出した。中でも植物の模様の壁紙やステンドグラスが有名である。生活と芸術を一致させようとするモリスのデザイン思想とその実践である※「アーツ・アンド・クラフツ運動」は各国に大きな影響を与え、20世紀のモダンデザインの源流にもなった。

 プロレタリアートを解放し、生活を芸術化するために、根本的に社会を変えることが不可欠だと考えたモリスはマルクス主義を熱烈に信奉し、カール・マルクスの娘のエリノア・マルクスらと行動を共にした。


※「アーツ・アンド・クラフツ(Arts and Crafts Movement)」は、結局高価な製品を作ることになってしまい、裕福な階層にしか使えなかったという批判もあるが、生活と芸術を一致させようとしたモリスの思想は各国にも大きな刺激を与え、「アール・ヌーヴォー」「ウィーン分離派」「ユーゲント・シュティール」など各国の美術運動にその影響が見られる。日本の柳宗悦も、モリスの運動に共感を寄せ、1929年、かつてモリスが活動していたケルムスコットを訪れた。柳の民芸運動は日本独自のものではあるが、トルストイの近代芸術批判の影響から出発し、アーツ・アンド・クラフツの影響も見られる。

2010年11月28日日曜日

フェリックス・ヴァロットン











Félix Edouard Vallotton

 19世紀末頃からフランスで活躍したスイス出身の画家。ナビ派の一員でもある。1890年代後半から単純化された斬新な白黒による木版画や、実験的要素の強い奇抜で幻覚的な構図・展開による油彩画を制作した。その後フランス美術界の中で頭角を現す。特に線的で大胆な木版画は19世紀末の平面芸術(グラフィックアート)界に新たな可能性を示した。また、画家の手がけた油彩画は後の超現実主義(シュルレアリスム)を予感させた。 裸婦や風景画を主な画題としているが、肖像画や静物画でも優れた作品を残している。ヴァロットンの平面的な表現や明確な輪郭線、素朴な様式、奇抜と調和が混在した造形と色面の対比的描写には、画家が感銘を受けていたアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、アンリ・ルソー、フィンセント・ファン・ゴッホらの影響も指摘されている。

2010年11月27日土曜日

エドゥアール・ヴュイヤール






 モーリス・ドニ、ピエール・ボナールらとともに、ナビ派の1人に数えられる。ヴュイヤールの画面は、他のナビ派の画家よりもさらに平面的、装飾的傾向が顕著である。

 室内情景など、身近な題材を好んで描き、自ら「アンティミスト(親密派):装飾性と平面性を融合させた表現様式で、物語性の希薄な日常の室内生活空間を画題とする作品を手がけた画派」と称した。大胆に切断される個性的な構図展開や短縮法、調和性を重要視した色彩表現などの手法を用いて繊細で装飾性の高い絵画作品を制作。同時代の画家の中でも重要な位置につけられているほか、装飾家としても非常に高い評価を受けている。生涯独身を通し、酒もたしなまなかったヴュイヤールの絵画は、その渋い色調ともあいまって、穏やかな人柄を彷彿させる。

2010年11月26日金曜日

モーリス・ドニ







 Maurice Denisの言葉に「絵画が、軍馬や裸婦や何らかの逸話である以前に、本質的にある秩序で集められた色彩で覆われた平坦な表面であることを、思い起こすべきである」とある。彼の絵画論は後にキュビズム、フォーヴィズム、抽象絵画を支える理論的な支柱となる。画家としては、宗教的な主題を多く描いたことで知られる。

 ドニは、最年少ながらナビ派の画家として確固たる地位を確立。日常に典拠を得た親密的で柔和な作品の他、信仰心と精神性を感じさせる宗教画や神話画、挿絵、壁画装飾など様々な作品を制作した。また理論家としても名高く、前述のナビ派を象徴する作品「護符(タリスマン、ポン・タヴェンの愛の森)」の制作者でもあるポール・セリュジエと共に同派の絵画表現理論の中核を担った。敬虔なカトリック教徒であったモーリス・ドニはピエール・ボナールやエドゥアール・ヴュイヤールとは異なり、ジャポニスム(日本趣味)よりも、初期ルネサンス(特にフィレンツェ派のフラ・アンジェリコ)や新古典主義に強い影響を受けるほか、アール・ヌーヴォーとの類似性も指摘されている。

2010年11月25日木曜日

ポール・セリュジエ





 Paul Sérusierは、ナビ派の創始者のひとりであり、同派を代表する画家。鮮やかな原色を使用した色面のみによる平面的画面構成と、抽象性の高い単純化された形象表現で絵画を展開。「護符(タリスマン)」はナビ派の起源・象徴となる作品として、同派の作品の中でも最も重要視されている。また彼の作品には、宗教的かつ神秘的な側面が強く感じられることも大きな特徴のひとつである。彼は既存の絵画表現に限界を感じ、新たな絵画表現を求めて、フランス北西部ブルターニュ地方に赴く。同地で新たな絵画表現の指導者として若い画家らに名が知られていたポール・ゴーギャンとエミール・ベルナール、そして両者によって考案された「総合主義(サンテティスム)」に出会い、強く感銘を受ける。そして、ゴーギャンの指導を受けながら代表作『護符(タリスマン)』を制作。その革新的な表現は仲間たちから熱烈に歓迎された。その後、若き画家たちによる前衛的な芸術一派「ナビ派」を結成する。その後、ブルターニュの風景や様子を表現することを止め、宗教的・神秘的要素の強い作品表現へと傾倒してゆく。


護符(タリスマン、ポン・タヴェンの愛の森)について(写真2番目)


 「ポン・タヴェンの愛の森」の風景は、総合主義で用いられたクロワゾニスムでは存在している輪郭線すら無く、まさに色面のみによって画面が構成されており、その表現は、ほぼ完全に抽象化されている。ゴーギャンの指導によって、樹木は黄色、樹木に茂る葉は赤色、射し込む陽光によって落ちる陰影は青色で表現される本作の、それまでの絵画には無い全く新しい単純性と平面性、幾何学的にすら感じられる類稀な抽象性は、既存の絵画表現に限界と不満を感じた彼の、革新的表現であり、その既存の絵画概念に対する破壊的な革新性ゆえ、未完的かつ小作でありながらも本作は、他の派の画家たちから熱烈な支持を得ることになり、その後のナビ派の結成において道標的な役割を果たした。なお本作の名称は制作当初「ポン・タヴェンの愛の森」と付けられていたものの、ナビ派の画家たちが本作を同派の護符として扱った為、「護符(タリスマン)」と呼称されるようになった。

2010年11月24日水曜日

ピエール・ボナール








 Pierre Bonnardは、ナビ派に分類される19世紀~20世紀のフランスの画家である。ポスト印象派とモダンアートの中間点に位置する画家で、版画やポスターにも優れた作品を残している。ボナールは一派の画家(ナビ派)のなかでももっとも日本美術の影響を強く受け、「日本的なナビ」と呼ばれた。また、室内情景などの身近な題材を好んで描いたことから、エドゥアール・ヴュイヤールとともにアンティミスト(親密派)と呼ばれている。

 彼は後にナビ派と呼ばれることになる画家グループを結成した(「ナビ」は「預言者」の意)。1890年、エコール・デ・ボザールで開催された日本美術展を見て感銘を受け、以後の作品には日本絵画の影響が見られる。

 妻となる女性、マリア・ブールサン(通称マルト)と出会う。これ以降のボナールの作品に描かれる女性はほとんどがマルトをモデルにしている。マルトという女性は、病弱な上に神経症の気味があり、また、異常なまでの入浴好きで、一日のかなりの時間を浴室で過ごしていたと言われる。実際、ボナールがマルトを描いた絵は、浴室の情景を表わしたものが多い。

 ボナールの絵の平面的、装飾的な構成には、セザンヌの影響とともに日本絵画の影響が見られる。一部の作品に見られる極端に縦長の画面は東洋の掛軸の影響と思われ、人物やテーブルなどの主要なモチーフが画面の端で断ち切られた構図は、伝統的な西洋美術には見られないもので、浮世絵版画の影響と思われる。ボナールの画面は1900年頃からそれまでの茶系を主調とした地味なものから、暖色を主調にした華やかな色彩に変化する。ボナールの華麗な色彩表現は、印象派とも日本の版画とも一線を画す、彼独自のものである。

ボナールは、病弱なマルトの転地療養のためもあり、1912年にはパリ西郊ヴェルノン、1925年には南仏ル・カネ(en)に家を構え、これらの土地でもっぱら庭の風景、室内情景、静物などの身近な題材を描いた。

2010年11月23日火曜日

ジャポニズム








 ジャポニスムとは、ヨーロッパで見られた日本趣味・日本心酔のことである。ジャポニスムは単なる一時的な流行ではなく、当時の全ての先進国で30年以上も続いた運動であり、欧米ではルネサンスに匹敵する、西洋近代的な美意識と科学的パースペクティヴの、大きな変革運動の一つの段階として見られている。特に19世紀中頃の万国博覧会へ出品などをきっかけに、日本美術、つまり浮世絵、琳派、工芸品などが注目され、印象派やアール・ヌーヴォーの作家たちに影響を与えた。

 ジャポニスムは、画家を初めとして、作家・詩人たちにも大きな影響を与えた。たとえばゴッホによる歌川広重模写や、モネの着物を着た少女が非常に有名であり、ドガを初めとした画家の色彩感覚、人物や風景の構図にも影響を与えている。

 ジャポニスムはオリエンタリズムから生じた結果ではあるが、西洋近代を告げるルネサンスにおいては自然回帰運動が起き、芸術の世界では具象をありのままに捉えようとする近代的パースペクティヴが発展し、写実性を求める動きが次第に強まり、19世紀中頃にクールベらによって名実ともに写実主義が定着した。19世紀後半からは写実主義が衰え、印象主義を経て抽象主義などのモダニズムに至る変革が起きた。この変革の最初の段階で決定的に作用を及ぼしたのがジャポニスムであったと考えられている。ジャポニスムは単なる流行にとどまらず、それ以降1世紀近く続いた世界的な芸術運動の発端となったのである。

 昨今では日本の漫画・アニメーションなどがフランスなどで高い人気を博しており、「現代のジャポニスム」といわれている。なお、ルイ・ヴィトンのダミエキャンバスやモノグラム・キャンバスも当時のゴシック趣味、アール・ヌーヴォーの影響のほか、市松模様や家紋の影響もかかわっているとされる。

2010年11月22日月曜日

アンリ・ジュリアン・フェリックス・ルソー


アンリ・ルソーは、フランスの素朴派の画家である。


素朴派とは、主として19世紀から20世紀にかけて存在した、絵画の一傾向であるが、前述のニコ・ピロスマニと同じ傾向の画家であるが、その存在は広く知れ渡っている。「ナイーヴ・アート」(Naïve Art)、「パントル・ナイーフ」(Peintre Naïf)と呼ばれることもある。

 一般には、画家を職業としない者が、正式の教育を受けぬまま、絵画を制作しているケースを意味する。すなわち、その者には別に正式な職業があることが多い。

 素朴派の作品は、対象を写実的に描写した、具象的な絵画であることがほとんどであることから、一般的には前衛性がないが、例えば、アンリ・ルソーの一部の作品などについては、前衛的な要素(幻想性等)を認める考え方も強い。

 彼は20数年間、パリ市の税関の職員を勤め、仕事の余暇に絵を描いていた「日曜画家」であった。ただし、ルソーの代表作の大部分は彼が税関を退職した後の50歳代に描かれている。

 ルソーの絵に登場する人物は大概、真正面向きか真横向きで目鼻立ちは類型化している。また、風景には遠近感がほとんどなく、樹木や草花は葉の1枚1枚が几帳面に描かれている。このような一見稚拙に見える技法を用いながらも、彼の作品は完成度と芸術性の高いもので、いわゆる「日曜画家」の域をはるかに超えており、19世紀末から20世紀初めという時期に、キュビスムやシュルレアリスムを先取りしたとも言える独創的な絵画世界を創造した。

 彼の作品には熱帯のジャングルを舞台にしたものが多数ある。画家自身はこうした南国風景を、ナポレオン3世とともにメキシコ従軍した時の思い出をもとに描いたと称していたが、実際には彼は南国へ行ったことはなく、パリの植物園でスケッチしたさまざまな植物を組み合わせて、幻想的な風景を作り上げたのであった。また、写真や雑誌の挿絵を元にして構図を考えた作品のあることも判明している。

2010年11月21日日曜日

ニコ・ピロスマニ







 19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したグルジアの画家。彼はグルジア鉄道で働いたり、自分の商店を持ったりしたが、体が弱いうえに、人付き合いがうまく行かなかったため長続きしなかった。その後、独学で習得した絵を描くことに専念するようになった。

 彼はプリミティヴィズムあるいは素朴派(ナイーブ・アート)の画家に分類されており、彼の絵の多くは、荒野にたたずむ動物たちや食卓を囲むグルジアの人々を描いたものである。一旦はロシア美術界から注目され名が知られるようになったが、そのプリミティヴな画風ゆえに新聞などから幼稚な絵だという非難を浴びてしまった。失意の彼は貧困のうちに死去したが、死後グルジアでは国民的画家として愛されるようになったほか、ロシアをはじめとした各国でも有名である。ソ連ではその生涯が映画化されている。YouTube - СМЕРТЬ ГЕНИЯ Pirosmani DEATH at HOLY WEEK

 彼の町を訪れたフランス人女優マルガリータと出会った。彼女を深く愛したピロスマニは、その愛を示すために、彼女の泊まるホテルの前の広場を花で埋め尽くしたという。この伝説はアンドレイ・ヴォズネセンスキーの詩によって有名になり、歌となってヒットした。その後、放浪の旅にでたピロスマニは15年後に「女優マルガリータ」を描いた。加藤登紀子の「百万本のバラ」に歌われる貧しい絵描きは、彼をモデルとしたものと言われる。