2011年10月30日日曜日

Oskar Schlemmer

オスカー・シュレンマー

バウハウスの階段



トリアディック・バレエ


 オスカー・シュレンマーは、ドイツの芸術家、彫刻家、デザイナーでバウハウスの教員であった。1923年にバウハウスシアターワークショップの造形主任として雇われた。
 1920年より9年間バウハウスの教員としてつとめ、主要なメンバーの一人として影響を与えたが、ナチスの台頭により彼の作品は廃退的であるとみなされその職を解任させられている。 
 ニューヨーク近代美術館(MoMA)に所蔵されている代表作、絵画「バウハウスの階段」が示すように、20世紀前衛芸術を代表する芸術家である。
 初期の彫刻工房を主宰しながら、人体の動きや組成を分析し、思考や感情に内在する原理を、新しくとらえなおした画期的な人間工学的授業「人間」を行なった。彼の作品の理論にあるものは「純粋な抽象化の拒絶」であり、それは人間性を残した抽象化、かといって感情的な表現ではなく、人間を物理的な側面から追求したデザインである。
 最も有名な作品であるトリアディック(トリアディッシュ)・バレエ(das Triadische Ballettは、1922年にシュトゥットガルトで初演され、その後も話題をよんだ。彼は、その間に絵画理論をはじめ、劇場という総合的演技空間から多くの示唆を受けて、ダンスにおける抽象化の理論化(アブストラクト・ダンス理論)を実践した。 そこでは、シュレンマー自身が、振り付け、衣装、舞台美術、音楽など、すべての創作と監修、統合を行なった。シュレンマーのバレエに秘められている、未来へのメッセージ、その魅惑的な謎はいまだに解けてはいない。今日バウハウスを機能主義一辺倒の生産工房としてとらえる見方から離れて、ダダ的な、祝祭的な要素、シュルレアリズムへの影響や先駆、有機的で、そして何より、地球環境的な芸術志向を、バウハウスが持っていたことが注目されている。

2011年10月12日水曜日

Bauhausについて



1919年、建築家ワルター・グロピウスが構想してワイマールに設立した学校である。同地にあった美術学校と工芸学校を合併し、新時代へ向けての工芸、デザイン、建築の刷新を図ろうとしたもので、以後、33年にナチス政権によって閉鎖に追い込まれるまで、近代デザインや近代建築の諸問題が検討され、豊かな実りをあげた
工業生産のなかでのデザイン、機能主義に立脚した建築などへの方向づけが、バウハウスを拠点にして示されたことが大きくあげられるが、バウハウスの理念はかならずしもこうした意味での近代主義に偏っていたのではなく、今日もなおそこに立ち返らなければならないデザインの基本的な活力をあわせもっている。
デザインや建築を総合的に把握しようとしたグロピウスの教育方針に基づいて、イッテン、ファイニンガー、クレー、シュレンマー、カンディンスキーらの芸術家がバウハウスにかかわったことが大きな特色としてあげられる。
彼らは側面からではあったが、バウハウスのデザイン理念を肉づけするために貢献した。開校当初は手業による工芸学校的な要素が強かったが、しだいに本来の軌道に入り、1923年には「芸術と技術:新しい統一」というテーマでバウハウスの成果を世に問うことになった。23年に定められた教育課程によれば、学生はまず予備課程において半年の基礎的な造形訓練を受け、木工、木石彫、金属、陶器、壁画、ガラス絵、織物、印刷の各工房へ進む。ここで学生は芸術家から造形の理念を学び、一方で技術者から、より実際的な技術を修得するというシステムがとられた。各工房で3年の課程を経たのち、すべてを統括する建築課程へ進むことになる。
この年、多才な造形家モホリ・ナギがバウハウスに迎えられ、教師の陣容もいっそう整えられた。しかし不運にもこのころワイマールに経済不調があって国立バウハウスの経済的基礎が崩れ、25年には反動的な政府の圧迫から閉鎖のやむなきに至り、デッサウ市の招きで市立バウハウスとして再編された。
デッサウのバウハウスではワイマール期の卒業生アルベルス、バイヤー、ブロイヤーらが新たに教員スタッフに加わり、それぞれの工房も飛躍的に充実した。この時期、新しい生産方式に基づいたデザインのあり方が追求され、また工房の作業は産業界と実際に連携して成果があった。グロピウス設計によるバウハウスの校舎(1926)は、工業時代特有の構造と機能美の統一によって、デッサウ期のバウハウスの精神を象徴的に語り出している。
1925年からはバウハウス叢書の刊行が始まり、幅広いデザイン思考の形成に寄与した。ここにはオランダの「デ・ステイル」派やロシアのマレービチの著作も含められ、バウハウスがもっていた国際的なつながりを知ることができる。
28年、いちおうの役割を果たしたグロピウスが退陣し、ハンネス・マイヤーが校長となった。マイヤーは、バウハウスのなかにあった形式主義的な一面を批判し、民衆への奉仕がデザイン本来の仕事であることを強調して新しい道筋を切り開こうとしたが、デッサウ市との対立で30年にバウハウスを離れた。その後バウハウスはミース・ファン・デル・ローエに引き継がれ、32年にナチスの弾圧でベルリンに地を移したのち、この私立バウハウスも33年には完全に閉鎖された。
しかし、バウハウスの精神は亡命した教師、卒業生によって継承された。とくにグロピウスとブロイヤーが教えたハーバード大学建築学部、モホリ・ナギが設立したシカゴのニュー・バウハウス(インスティテュート・オブ・デザインを経てイリノイ工科大学デザイン学部に合併)など、アメリカのデザイン教育に及ぼした影響は著しい。またドイツではバウハウスの卒業生マックス・ビルによって1955年にウルム造形大学が開かれ、新たに再出発した。
日本のデザイン界も水谷武彦、山脇巌・道子夫妻の留学以来、バウハウスから多くを吸収して今日に至っている。さらに、デッサウの校舎も復原され、ベルリンのバウハウス資料館ともども、バウハウス再評価がいつの時代にも必要であることにこたえようとしている。なお、ワイマールとデッサウのバウハウスとその関連遺産は1996年に世界遺産の文化遺産として登録されている

2011年7月2日土曜日

Piet Mondrian




ピエト・モンドリアン
赤・黄・青・黒のコンポジション
ブロードウェイ・ブギウギ
 ピエト・モンドリアン(1872年3月7日 - 1944年2月1日)は、19世紀末~20世紀のオランダ出身の画家。ワシリー・カンディンスキーと並び、本格的な抽象絵画を描いた最初期の画家とされる。
 モンドリアンは、初期には風景、樹木などを描いていたが、やがて完全な抽象へ移行する。有名な「リンゴの樹」の連作を見ると、樹木の形態が単純化され、完全な抽象へと向かう過程が読み取れる。作風は、表現主義の流れをくむカンディンスキーの「熱い抽象」とはまったく対照的で、「冷たい抽象」と呼ばれる。水平と垂直の直線のみによって分割された画面に、赤・青・黄の三原色のみを用いるというストイックな原則を貫いた一連の作品群がもっともよく知られる。
 モンドリアンは、アムステルダム国立美術アカデミーにおいて、伝統的な美術教育を受けた。この頃から線描よりも色彩を重視する傾向が作風に現れている。アカデミー卒業後は次第にリアリズムを離れるようになり、印象派やポスト印象派、特にゴッホやスーラの影響を受けた画風に転ずる。この頃のモンドリアンは「色と線がそれ自体でもっと自由に語ることができるように」することを試みていた。
 1911年、アムステルダムにおける美術展でキュビスムの作品に接して深い感銘を受け、パリへ行く決心をする。1912年から1914年までパリに滞在し、ピカソやブラックが提唱するキュビスムの理論に従って事物の平面的・幾何学的な形態への還元に取り組む。その過程でモンドリアンは抽象への志向を強め、彼の考える「キュビスムの先」を目指すことになる。キュビスムの探求がもたらしたこの転機について、モンドリアンは「キュビスムは自らの発見がもたらす論理的帰結を受け止めていないことが、徐々にわかってきた。つまりキュビスムが展開する抽象化は、その究極の目標である、純粋なリアリティの表現へと向かっていないと思うようになった」と述べている。彼はそのリアリティの表現が純粋造形によってのみ確立され得ると感じ、より一層の表現の探求に向かうことになる。
 1917年にはドースブルフと共に芸術雑誌『デ・ステイル』を創刊。ここで彼らの唱えた芸術理論が「新造形主義」と呼ばれるものである。モンドリアンは1925年に『デ・ステイル』を去るまで、エッセイを寄稿するなどメンバーの一員として活動した。彼は宇宙の調和を表現するためには完全に抽象的な芸術が必要であると主張し、その創作は一貫して抽象表現の可能性の探求に向けられるようになる。極限まで幾何学化・単純化された海と埠頭や樹木の絵から、一切の事物の形態から離れた抽象絵画への移行が起こり、短く黒い多数の上下左右の線のみによる絵、三色からなる四角形の色面を様々な間隔で配置した絵など、様々な作品を試みた。この試行錯誤の時期から、作品には「コンポジション」の題が付けられるようになる。
 抽象表現の実験が続く中で、次第にモンドリアンの絵は黒い上下左右の直線と、その線に囲まれた様々な大きさの四角形の色面から構成されるようになる。色面の色の種類も青・赤・黄の三色に限定されるようになり(黒の色面があることもある)、作品によって三色全てかあるいは一色か二色のみが使われるようになる。こうして1921年、モンドリアンの代表作である、水平・垂直の直線と三原色から成る「コンポジション」の作風が確立された。
 モンドリアンは純粋なリアリティと調和を絵画において実現するためには、絵画は平面でなくてはならない(つまり従来の絵画のような空間や奥行きの効果は除かれねばならない)と考え、また自らの絵画こそ純粋なリアリティと調和を実現しうると考えていた。そのような作品を創るために、彼は作品ごとに構図を決めるにあたって苦心と試行錯誤を重ね、色むらやはみ出した部分の一切ない厳密な線や色面を描きあげるために細心の注意と努力を払っていた。そうした抽象画のモンドリアンを理解する人も多かったが、生活を支えるために淡い色調で描かれた植物(特に花)の絵を描いては売っていたという。またモンドリアンはキャンバスを45度傾けた(角を上下左右にもってきた)作品を創ったり、額縁を用いなかったりなど、描画以外の面でも様々な工夫を凝らした。
 1940年には激しくなりつつある戦火を避けてニューヨークに移住した。亡命してきたモンドリアンは一部で注目され、『フォーチュン』誌は亡命芸術家12人を特集した記事においてモンドリアンも取り上げ、タイポグラフィーやレイアウト、建築、工業デザインなど様々な商業美術に与えた影響の大きさを強調した。アメリカに移ってからのモンドリアンは上下左右の直線に黒以外の色も用いるようになり(それ以前にも直線のみの作品では黒以外の色を用いたこともあったが、色面と共に黒以外の直線を用いたのはニューヨーク時代以降である)、それをきっかけにしてモンドリアンの絵はより華やかに展開していくことになる。ニューヨーク時代の代表作『ブロードウェイ・ブギウギ』は、アメリカで初めて聴いたブギウギに触発されて描かれたものであり、上下左右の直線と三原色の原則に従いつつも、上下左右の直線は黄色になり、その直線の部分部分に赤・青・白の色面が数多く描かれるなど華やかな画面構成となり、完全な抽象絵画でありながら、画面からはニューヨークの街の喧騒やネオンの輝きさえ感じ取れるようだとする評者もいる。
 1942年、モンドリアンは生涯初の個展を開いた。1943年には『ブロードウェイ・ブギウギ』がニューヨーク近代美術館に購入されるなど、その作品に対する評価もようやく高まりはじめる。もっともモンドリアン自身はそれまでの自らの作品に満足することなく、目指す絵画を創り上げるために試行錯誤を続けていた。亡くなる少し前に彼は、自分の目標は次々に高くなるので、その実現に悪戦苦闘すると述べている。1944年、風邪をこじらせて肺炎となり、未完の『ヴィクトリー・ブギウギ』を遺してニューヨークで死去した。絵を平面として捉え、額縁を取り除き、何かの描写ではない一つのそれ自体として完成された表現としての絵を追求したモンドリアンの姿勢は、様々な変化を経つつ「抽象表現主義」や「ミニマル・アート」に受け継がれている。

2011年6月8日水曜日

der Blaue Reiter







青騎士は、1912年にヴァシリー・カンディンスキーとフランツ・マルクが創刊した綜合的な芸術年刊誌の名前であり、またミュンヘンにおいて1911年12月に集まった主として表現主義画家たちによる、ゆるやかな結束の芸術家サークルである。日本語では「青騎手」とも訳される。
「青騎士」は、非常に短命であったが、その後世に与えた影響は大きく、青騎士と周辺の芸術家は20世紀における現代芸術の重要な先駆けとなった。
19世紀以前には、多様な主義主張がありながらも対象を客観的に描くという点では共通していた西洋絵画も、19世紀末になると、それまでの伝統を乗り越えようとする試みが現れた。ドイツ語圏では、当時のアカデミズムに支配されたサロンに反抗し分離派と呼ばれる芸術家グループもいくつか誕生した。これら分離派は同時代のヨーロッパ各地の芸術運動から影響を受けていた。
1905年、パリのサロン・ドートンヌに颯爽とフォーヴィスムが登場した。後期印象主義に影響を受けたマティスらは、対象をキャンバスの上に再現するのではなく、大胆な色彩によって鑑賞者の感覚に直接訴える絵を描こうとした。
同じころドイツでも、激しい色彩を用いて絵画の方向性を探る運動が始まっていた。これは表現主義とよばれ、フォーヴィスムや象徴主義の影響を受けて分離派よりもさらに前衛色を増し、ドレスデンのブリュッケや、本項で扱うミュンヘンの青騎士といったグループを中心に展開した。

青騎士主宰者の一人であるカンディンスキーは1909年1月、ヤウレンスキー、ミュンター、ヴェレフキンらとともに「ミュンヘン新芸術家協会」を結成し、会長に就いた。青騎士のもう一人の首班フランツ・マルクは、1910年9月に行われたその第二回展を見て感激し、直ちにヤウレンスキーとカンディンスキーのアトリエを訪ね、この協会に加わっている。この第二回展は、ミュンヘン在住の画家たちの作品のほかに、遠くパリからもピカソ、ブラック、ルオーら当時の前衛画家たちの絵が寄せられ、近代絵画国際展の観があったが、この展覧会に対する新聞や雑誌、大衆の評判は惨憺たるものであった。マルクは展覧会を批判した保守的な新聞や一般大衆との論争を開始し、1910年から『青葉』という雑誌の刊行を企画しはじめた。そこには、文化革新の幅広い基盤の上に立って行う芸術闘争という、青騎士の理念の先駆をなす考えが表れている。『青葉』は『青騎士』誌構想に発展的に吸収された。
1911年、ミュンヘン新芸術家協会の第三回展において、カンディンスキーの作品「コンポジションV」は、既定のサイズを超えているという口実によって出展を拒否された。すでに以前からカンディンスキーは、一部の協会メンバーと対立していたのである。これを機にカンディンスキーは、彼に同調したマルク、クビン、ミュンターとともに協会を去り、1912年にはヤウレンスキーとヴェレフキンも後を追った。
カンディンスキーとミュンターは1909年から一緒にムルナウに住み、近くのジンデルスドルフにはマルクとカンペンドンクが居を構えた。ミュンヘン新芸術家協会との諍いの後、カンディンスキーが協会を去った1911年から、カンディンスキーとマルクは協働して新たな芸術運動に精力的に取り組んだ。秋にはムルナウで年刊誌刊行のための編集上の相談と、その決定的な部分の準備作業とが行われ、同年冬には作品を選定して展覧会を開いた。
ムルナウのミュンターの家は土地の人々に「ロシア人の家」と呼ばれ、またたく間に青騎士の芸術家たちのたまり場となった。1912年にはカンディンスキーとマルクの編集によって年刊誌『青騎士』第一巻が刊行された。
カンディンスキーとマルクの他に青騎士に加わったのは、マッケ、ミュンター、ヴェレフキン、ヤウレンスキー、クビンだった。パウル・クレーは公認のメンバーではなかったが、青騎士に非常に親近感を持ち、作品を出品している。アルノルト・シェーンベルクのような作曲家??彼はまた画家でもあったが??も青騎士に参加した。青騎士を構成した芸術家たちは、中世や原始の芸術、そして同時代のフォーヴィスムやキュビスムといった芸術運動にともに関心を持っている点で結びついていた。 
端的にいえば青騎士が目指したのは、それまで当然のこととされてきた「形象(フォルム)」へのこだわりを捨てて、すべての芸術に共通する根底を明らかにすることであった。フォルムの呪縛を乗り越えることには同時に、物質主義文明を克服する確固たる意志をも重ね合わされた。
マルクとカンディンスキーは、青騎士によって共同体が感覚として「硬い規定」を作り出したり特定の方向性を喧伝したりする新たな「芸術家の協会」を目指したのではなく、むしろ芸術表現の多様性を編集上の文脈の中で束ねることを考えた。この考えのもと2回の展覧会と年刊誌『青騎士』は企画された。
アウグスト・マッケとフランツ・マルクは、人間はみな芸術を通してともに結びつけられる内的および外的現実体験を持っているという見解を支持した。この考え方はカンディンスキーがその著書『芸術における精神的なもの』によって理論的基礎を固めたものである。カンディンスキーはそれを、芸術の「内的必然性」とよび、芸術作品は内側から鑑賞者に語りかけ、見る者はその声を聴くのだと訴えた。
青騎士はそもそも主義やイズムといった様式の確立を志向する集団ではなかった。従って属する芸術家どうしの間には、表現主義的であること以上の際立った共通点はない。彼らを結び付けていた要素は同時代のヨーロッパにおける芸術運動や中世の美術、プリミティフな美術・工芸への関心であり、また芸術家の内面を宇宙や世界、歴史といった客体と共振しようとするロマン主義であった。カンディンスキーが青騎士の時代を境に抽象的画風へと変化していったように、このロマン主義はしばしば反具象的傾向となってあらわれた。

【画像1】フランツ・マルク「青い馬の塔」1913年
【画像2】アウグスト・マッケ「明るい家」1914年
【画像3】ヴァシリー・カンディンスキー

2011年6月5日日曜日

Adolphe Mouron Cassandre








 アドルフ・ムーロン・カッサンドルは、様々なポスター作品などを手がけたフランスのグラフィックデザイナー、舞台芸術家、版画家、タイポグラファーである。
 ウクライナのハリコフでフランス人の両親に生まれ、1915年、フランスのパリに移住する。
1918年、ボザールに短期間在籍し、その後アカデミー・ジュリアンでリュシアン・シモンと知己を得るまでは絵画、とりわけ印象主義を学んでいた。ごく早い段階でバウハウスに興味をもち、徐々にその影響を受けてゆくこととなる。

 1922年に、最初の広告の仕事を世に送る。
カッサンドルは初め、この職は画家として身を立てるまでの食い扶持のために過ぎないと考えており、「絵画はそれ自身で目的になるが、ポスターは売り手と公衆の単なるコミュニケーション手段にすぎない」とはっきり認めていた。

 言うなればこの明瞭で読み取りやすいメッセージへの指向こそが、後に彼のヴィジュアル・コンセプトに建築的・幾何学的構成を導くこととなったものであるといえる。カッサンドルはパブリシティのためのグラフィックデザインに習熟するに連れて徐々にこれに熱中してゆき、これを「(芸術画家が)失った公衆との回路を再発見する」手だてであると考えるようになってゆく。

 1940年代以降は広告関係の仕事をやめ、装飾や舞台、絵画で活動するようになった。
徐々に抑鬱的になったと見られ、一度の未遂の後、1968年6月17日にパリで拳銃自殺した。67歳没。



【作品】
 1920年代から1930年代にかけてキュビズムの影響を受けた多くの作品を生み出した。直線や立体感など幾何学的構成・エアブラシを使った点描的画法により構成される、いわゆるアール・デコを代表するデザイナーである。特にポスターのデザインを多く手がけた。

カッサンドル
②北方急行 (NORD EXPRESS) - 1927年
③DUBO / DUBON / DUBONNET - 1932年
④ノルマンディ号 (NORMANDIE) - 1935年

2011年3月9日水曜日

Tamara de Lempicka








 タマラ・ド・レンピッカ(1898年~1980年)はポーランド生まれのアール・デコの画家である。彼女の個性的で大胆な作風は、ロートのソフト・キュビスム、ドニの総合的キュビスムの影響を受け、さらに急速な進化を遂げ、アール・デコ運動の冷ややかな一面と官能的な一面を統合させる。
 彼女について、ピカソは「統合された破壊の斬新さ」と語った。彼女は、印象派の画家の多くが下手に絵を描き、「汚い」色を使用していると考えていた。それに対して彼女のテクニックは、新鮮で、クリアで、正確で、エレガントだった。
 1925年、彼女は自画像を描く。『オートポートレート(緑色のブガッティに乗るタマラ)』がそれで、ドイツのファッション雑誌『ダーメ』の表紙を飾った。1974年、雑誌『オート・ジャーナル』では、この絵について、「タマラ・ド・レンピッカの自画像は、自己主張する自立した女性のリアルなイメージである。彼女は手袋をし、ヘルメットをかぶって、近づき難い。冷たく、心かき乱す美しさ、身震いさせられる——この女性は自由だ!」と。 
 狂騒の20年代、タマラ・ド・レンピッカは、パリでボヘミアン的な人生を送っていた。パブロ・ピカソ、ジャン・コクトー、アンドレ・ジッドとは知り合いだった。彼女の美貌、さらに彼女が両性愛者であることはよく知られていた。男性とも女性とも関係を持つことは、スキャンダラスで騒がれた。しばしば彼女は、自画像の中にストーリー性を持たせ、ヌードのスケッチは挑発的効果を生み出した。彼女は、ヴァイオレット・トレフーシス、ヴィタ・サックヴィル=ウェスト、コレットら、文壇・画壇のサークルに属したレズビアンおよび両性愛者たちと親しく交際した。さらにシャンソン歌手のシュジー・ソリドールと親密になり、後には彼女の肖像画も描いた。
 1939年から、タマラはアメリカで「長期休暇」を始めた。彼女はただちにニューヨークで個展を開いた。住まいに選んだのは、カリフォルニア州のビバリーヒルズで、ハリウッドの映画監督キング・ヴィダーの家の向かいだった。そして、ハリウッドスターのお気に入りの芸術家になった。ガルボのような仕草を身につけ、タイロン・パワー、ウォルター・ピジョン、ジョージ・サンダースといったスターたちのセットを訪問し、反対に仕事場を訪問されたりした。
 1941年頃の彼女の作品のいくつかは、サルバドール・ダリを思わせる。その後1943年、ニューヨークに居を移す。スタイリッシュな生き方を続けるが、この頃には画家としての名声はもはや失われていた。タマラは新しい作風を模索し始めた。描く対象を広げようと、静物画から抽象画まで手を出した。筆の代わりにパレット・ナイフを使ったりもした。1962年新作を出展したが好評は得られなかった。タマラは二度と作品を発表しないと決めプロ画家を引退した。しかし、絵を描くことは続け、時々旧作を新しいスタイルで描き直したりした。
 1970年代の人間は才能と「育ち」が欠如していて自分の芸術がわからないだの、不平をこぼしまくったが、全盛期の筆力と技巧を二度と取り戻すことはできなかった。1978年、タマラはメキシコに移住する。年老いた世界中の仲間と少数の若い貴族に囲まれて暮らすためだった。
 タマラは充分長生きすることができた。というのも彼女が死ぬ前に、流行の推移はすっかり一巡していたのである。若い世代がタマラの芸術を再発見し、熱烈に支持した。1973年の回顧展も大好評だった。彼女が死んだ時には、彼女の初期のアール・デコ絵画が続々と展示・販売された。彼女の人生にヒントを得た芝居『タマラ』はロサンゼルスでロングランされ、その直後、ニューヨークでも公演された。ジャック・ニコルソンは、タマラの作品をコレクションしている。2005年には、女優兼アーティストのカーラ・ウィルソンが、タマラの生涯に基づく一人芝居「Deco Diva」を演じた。

 マドンナもタマラの大ファンで、彼女の作品を集めており、イベントや博物館に貸し出したこともあった。マドンナは、『エクスプレス・ユアセルフ』、『Open Your Heart』のプロモーション・ビデオでタマラの作品を登場させ、そしてついに、冒頭にタマラの多数の作品をあしらった『ヴォーグ』のプロモーション・ビデオの衝撃は、タマラ・ド・レンピッカの世界的な大衆人気を不動のものにしたのである。

2011年3月5日土曜日

Art Déco

タマラ・ド・レンピッカ(女流画家)
カッサンドル(ポスター)


レイモン・サヴィニャック(商業デザイン) 


 アール・デコ(仏)とは、アール・ヌーヴォーの時代に続き、ヨーロッパおよびアメリカを中心に1910年代半ばから1930年代にかけて流行、発展した装飾の一傾向。原義は装飾美術である。
 幾何学図形をモチーフにした記号的表現や、原色による対比表現などの特徴を持つが、その装飾の度合いや様式は多様である。
 アール・デコは1925年に開催されたパリ万国装飾美術博覧会で花開いた。博覧会の正式名称は「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」(Exposition Internationale des Arts Decoratifs et Industriels modernes)、略称をアール・デコ博といい、この略称にちなんで一般に「アール・デコ」と呼ばれるようになった。また「1925年様式」と呼ばれることもある。
 キュビズム、バウハウスのスタイル、当時発掘が相次いだ古代エジプト美術の装飾模様、アステカ文化の装飾、日本や中国などの東洋美術など、古今東西からの様々な引用や混合が指摘されている。世紀末のアール・ヌーヴォーは、植物などを思わせる曲線を多用した有機的なデザインであったが、自動車・飛行機や各種の工業製品、近代的都市生活といったものが生まれた時代への移り変わりに伴い、世界中の都市で同時代に流行し、大衆に消費された装飾でもある。富裕層向けの一点制作のものが中心となったアール・ヌーヴォーのデザインに対し、アール・デコのデザインは一点ものも多かったものの、大量生産とデザインの調和をも取ろうとした。アール・デコの影響を受けた分野は多岐にわたり、広まった。
 アール・デコは、装飾ではなく規格化された形態を重視する機能的モダニズムの論理に合わないことから、流行が去ると過去の悪趣味な装飾と捉えられた。従来の美術史、デザイン史では全く評価されることもなかったが、1966年、パリで開催された「25年代展」以降、モダンデザイン批判やポスト・モダニズムの流れの中で再評価が進められてきた。

2011年2月21日月曜日

Art Nouveau






ビアズリー

クリムト
ミュシャ

 アール・ヌーヴォーは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動である。「新しい芸術」を意味する。花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴。分野としては建築、工芸品、グラフィックデザインなど多岐に亘った。
 第一次世界大戦を境に、装飾を否定する低コストなモダンデザインが普及するようになると、アール・デコへの移行が起き、アール・ヌーヴォーは世紀末の退廃的なデザインだとして美術史上もほとんど顧みられなくなった。しかし、1960年代のアメリカでアール・ヌーヴォーのリバイバルが起こって以降、その豊かな装飾性、個性的な造形の再評価が進んでおり、新古典主義とモダニズムの架け橋と考えられるようになった。

2011年2月20日日曜日

Arts and Crafts Movement


モリス

 アーツ・アンド・クラフツは、イギリスの詩人、思想家、デザイナーであるウィリアム・モリス(1834年-1896年)が主導したデザイン運動(アーツ・アンド・クラフツ運動)である。美術工芸運動と表記されることもある。
 ヴィクトリア朝の時代、産業革命の結果として大量生産による安価な、しかし粗悪な商品があふれていた。モリスはこうした状況を批判して、中世の手仕事に帰り、生活と芸術を統一することを主張した。モリス商会を設立し、装飾された書籍(ケルムスコット・プレス)やインテリア製品(壁紙家具、ステンドグラス)などを製作した。
 モリスの運動自体は、結局高価な製品を作ることになってしまい、裕福な階層にしか使えなかったという批判もあるが、生活芸術を一致させようとしたモリスの思想は各国にも大きな刺激を与え、アール・ヌーヴォーウィーン分離派ユーゲント・シュティールなど各国の美術運動にその影響が見られる。日本の柳宗悦もモリスの運動に共感を寄せ、1929年、かつてモリスが活動していたケルムスコットを訪れた。柳の民芸運動は日本独自のものであるが、トルストイの近代芸術批判の影響から出発し、アーツ・アンド・クラフツの影響も見られる。