2020年1月1日水曜日


「ウッフィツィ美術館」①

フィレンツェの美術館。イタリア国内の美術館としては収蔵品の質、量ともに最大。主な展示作品は、古代ギリシア、古代ローマ時代の彫刻から、ボッティチェッリ、レオナルド、ミケランジェロ、ラッファエッロらイタリアルネサンスの巨匠の絵画に至る。

2012年4月27日金曜日

2012年2月22日水曜日

Vilhelm Hammershøi


ハンマースホイ



「若い女性の肖像、画家の妹アナ・ハンマースホイ」(1885)

「クレスチャンボー宮殿、晩秋」(1890 - 92)

読書する若い男のいる室内 (1898)

陽光、あるいは陽光に舞う塵 (1900)

『5人の肖像』(1901 - 02)

『ゲントフテ湖、天気雨』(1903)

背を向けた若い女性のいる室内 (1903-04)

『白い扉、あるいは開いた扉』(1905)

『室内、ストランゲーゼ25番地』

今回から、私に大きな影響を与えたアーティストを掲載します。

ヴィルヘルム・ハンマースホイ(Vilhelm Hammershøi)は、デンマークの画家である。作品は、白・黒・灰色を基調とした抑えた色調で、時間の止まったような静寂な空気を感じさせる細密なタッチの室内画が中心だ。室内風景画の多くには鑑賞者に背を向けた人物が描かれていて、その多くは彼の妻イーダである。
ハンマースホイは、生前にはデンマークを代表する画家として、特に国外で名声を得たが、その死後は急速に忘れられていった。再評価が始まったのはようやく20世紀末になってからであった。

ハンマースホイは1864年、コペンハーゲンの裕福な家庭に生まれる。1872年、8歳の時から個人レッスンでデッサンを学び始め、1879年からはコペンハーゲンの王立美術アカデミーで学んだ。
1885年、21歳の時、妹のアナを描いた『若い女性の肖像、画家の妹アナ・ハンマースホイ』を王立美術アカデミーの展覧会に出品するが、アカデミーの授与するノイハウスン賞に落選したことで、当時の美術家の間に物議を醸し話題となる。『若い女性の肖像』は、黒と灰色を主調としたモノトーンに近い色彩、曖昧な空間表現、自由なタッチなどが当時のアカデミーの趣味に合致しなかった。
1888年には、コペンハーゲンの歯科医で美術コレクターでもあったアルフレズ・ブラムスンが初めてハンマースホイの作品を購入する。以後、ブラムスンはハンマースホイのコレクター・後援者として、生涯にわたり画家を支援した。ブラムスンは画家の生前にいくつかの展覧会を組織し、画家の没後には作品目録の作成や伝記執筆を行っている。
1891年にはアカデミーで知り合った画家ピーダ・イルステズの妹のイーダと結婚。彼女の姿はハンマースホイの多くの室内画に登場する。ハンマースホイはイーダとともに1898年から1909年までコペンハーゲン、ストランゲーゼ30番地のアパートで暮らした。
1908年にデンマーク王立美術アカデミーの総会会員に就任し、1910年には同評議員になる。1911年、ローマで開かれた国際美術展で第一等を獲得。1910年代に入ってヨーロッパ各国で個展が開かれるようになり、評価が進んだ。
1916年にコペンハーゲンで咽頭癌で死去。晩年のハンマースホイは病弱で、1914年に母を亡くしたショックもあり、この頃の作品には未完成のまま筆を置いたものが多い。死の前年の1915年には遺作となった『室内、ストランゲーゼ25番地』という1枚の絵を制作したのみであった。

ハンマースホイの絵画の大部分は室内風景画である。なかでも、1898年から1909年まで暮らしたコペンハーゲン、ストランゲーゼ30番地のアパートの室内を描いたものが多い。このアパートで制作された室内画には同じ部屋が繰り返し描かれ、アパートのどの部屋のどの位置から描かれたかが正確に特定できる。また、同じピアノ、テーブル、椅子、磁器製のパンチボウル、金属製のストーヴなどが多くの絵に繰り返し登場する。室内の様子には生活感や物語をうかがわせるものがほとんどない。室内に描かれる人物は1人か2人で、後ろ向きであることが多く、正面向きに描かれたとしても顔のタッチがほとんどぼかされるか影に入っているうえ、人物は鑑賞者と視線を合わせない。
さらには、人物のいない、無人の室内を描いた作品も少なくない。このように、ハンマースホイの絵はタイトル以外、解釈の手がかりをほとんど排除している。同じ室内を繰り返し描く点などフェルメールのオランダ絵画の影響が指摘されるが、白と黒を基調としたモノトーンに近い色使いと静謐な画面はハンマースホイ独自のものである。
室内画のほか、肖像画、風景画なども制作している。肖像画のモデルは家族と親しい友人に限られ、人物は鑑賞者と視線を合わせないように描かれることが多い。複数の人物を描いた集団肖像画においてもその点は同様で、画家の弟や友人らを描いた『5人の肖像』(1901 - 02年)では、描かれた5人の人物は互いに視線を交わすことなく、自らの内面と向き合っているようにみえる。宮殿などの建物や都市近郊の風景を題材にした風景画も制作しているが、ハンマースホイの描く風景には人物がほとんど登場しない。こうした静寂、寂寥感は、ジャンルや制作時期を問わず、ハンマースホイの作品全般に通じる特色である。

2011年10月30日日曜日

Oskar Schlemmer

オスカー・シュレンマー

バウハウスの階段



トリアディック・バレエ


 オスカー・シュレンマーは、ドイツの芸術家、彫刻家、デザイナーでバウハウスの教員であった。1923年にバウハウスシアターワークショップの造形主任として雇われた。
 1920年より9年間バウハウスの教員としてつとめ、主要なメンバーの一人として影響を与えたが、ナチスの台頭により彼の作品は廃退的であるとみなされその職を解任させられている。 
 ニューヨーク近代美術館(MoMA)に所蔵されている代表作、絵画「バウハウスの階段」が示すように、20世紀前衛芸術を代表する芸術家である。
 初期の彫刻工房を主宰しながら、人体の動きや組成を分析し、思考や感情に内在する原理を、新しくとらえなおした画期的な人間工学的授業「人間」を行なった。彼の作品の理論にあるものは「純粋な抽象化の拒絶」であり、それは人間性を残した抽象化、かといって感情的な表現ではなく、人間を物理的な側面から追求したデザインである。
 最も有名な作品であるトリアディック(トリアディッシュ)・バレエ(das Triadische Ballettは、1922年にシュトゥットガルトで初演され、その後も話題をよんだ。彼は、その間に絵画理論をはじめ、劇場という総合的演技空間から多くの示唆を受けて、ダンスにおける抽象化の理論化(アブストラクト・ダンス理論)を実践した。 そこでは、シュレンマー自身が、振り付け、衣装、舞台美術、音楽など、すべての創作と監修、統合を行なった。シュレンマーのバレエに秘められている、未来へのメッセージ、その魅惑的な謎はいまだに解けてはいない。今日バウハウスを機能主義一辺倒の生産工房としてとらえる見方から離れて、ダダ的な、祝祭的な要素、シュルレアリズムへの影響や先駆、有機的で、そして何より、地球環境的な芸術志向を、バウハウスが持っていたことが注目されている。

2011年10月12日水曜日

Bauhausについて



1919年、建築家ワルター・グロピウスが構想してワイマールに設立した学校である。同地にあった美術学校と工芸学校を合併し、新時代へ向けての工芸、デザイン、建築の刷新を図ろうとしたもので、以後、33年にナチス政権によって閉鎖に追い込まれるまで、近代デザインや近代建築の諸問題が検討され、豊かな実りをあげた
工業生産のなかでのデザイン、機能主義に立脚した建築などへの方向づけが、バウハウスを拠点にして示されたことが大きくあげられるが、バウハウスの理念はかならずしもこうした意味での近代主義に偏っていたのではなく、今日もなおそこに立ち返らなければならないデザインの基本的な活力をあわせもっている。
デザインや建築を総合的に把握しようとしたグロピウスの教育方針に基づいて、イッテン、ファイニンガー、クレー、シュレンマー、カンディンスキーらの芸術家がバウハウスにかかわったことが大きな特色としてあげられる。
彼らは側面からではあったが、バウハウスのデザイン理念を肉づけするために貢献した。開校当初は手業による工芸学校的な要素が強かったが、しだいに本来の軌道に入り、1923年には「芸術と技術:新しい統一」というテーマでバウハウスの成果を世に問うことになった。23年に定められた教育課程によれば、学生はまず予備課程において半年の基礎的な造形訓練を受け、木工、木石彫、金属、陶器、壁画、ガラス絵、織物、印刷の各工房へ進む。ここで学生は芸術家から造形の理念を学び、一方で技術者から、より実際的な技術を修得するというシステムがとられた。各工房で3年の課程を経たのち、すべてを統括する建築課程へ進むことになる。
この年、多才な造形家モホリ・ナギがバウハウスに迎えられ、教師の陣容もいっそう整えられた。しかし不運にもこのころワイマールに経済不調があって国立バウハウスの経済的基礎が崩れ、25年には反動的な政府の圧迫から閉鎖のやむなきに至り、デッサウ市の招きで市立バウハウスとして再編された。
デッサウのバウハウスではワイマール期の卒業生アルベルス、バイヤー、ブロイヤーらが新たに教員スタッフに加わり、それぞれの工房も飛躍的に充実した。この時期、新しい生産方式に基づいたデザインのあり方が追求され、また工房の作業は産業界と実際に連携して成果があった。グロピウス設計によるバウハウスの校舎(1926)は、工業時代特有の構造と機能美の統一によって、デッサウ期のバウハウスの精神を象徴的に語り出している。
1925年からはバウハウス叢書の刊行が始まり、幅広いデザイン思考の形成に寄与した。ここにはオランダの「デ・ステイル」派やロシアのマレービチの著作も含められ、バウハウスがもっていた国際的なつながりを知ることができる。
28年、いちおうの役割を果たしたグロピウスが退陣し、ハンネス・マイヤーが校長となった。マイヤーは、バウハウスのなかにあった形式主義的な一面を批判し、民衆への奉仕がデザイン本来の仕事であることを強調して新しい道筋を切り開こうとしたが、デッサウ市との対立で30年にバウハウスを離れた。その後バウハウスはミース・ファン・デル・ローエに引き継がれ、32年にナチスの弾圧でベルリンに地を移したのち、この私立バウハウスも33年には完全に閉鎖された。
しかし、バウハウスの精神は亡命した教師、卒業生によって継承された。とくにグロピウスとブロイヤーが教えたハーバード大学建築学部、モホリ・ナギが設立したシカゴのニュー・バウハウス(インスティテュート・オブ・デザインを経てイリノイ工科大学デザイン学部に合併)など、アメリカのデザイン教育に及ぼした影響は著しい。またドイツではバウハウスの卒業生マックス・ビルによって1955年にウルム造形大学が開かれ、新たに再出発した。
日本のデザイン界も水谷武彦、山脇巌・道子夫妻の留学以来、バウハウスから多くを吸収して今日に至っている。さらに、デッサウの校舎も復原され、ベルリンのバウハウス資料館ともども、バウハウス再評価がいつの時代にも必要であることにこたえようとしている。なお、ワイマールとデッサウのバウハウスとその関連遺産は1996年に世界遺産の文化遺産として登録されている

2011年7月2日土曜日

Piet Mondrian




ピエト・モンドリアン
赤・黄・青・黒のコンポジション
ブロードウェイ・ブギウギ
 ピエト・モンドリアン(1872年3月7日 - 1944年2月1日)は、19世紀末~20世紀のオランダ出身の画家。ワシリー・カンディンスキーと並び、本格的な抽象絵画を描いた最初期の画家とされる。
 モンドリアンは、初期には風景、樹木などを描いていたが、やがて完全な抽象へ移行する。有名な「リンゴの樹」の連作を見ると、樹木の形態が単純化され、完全な抽象へと向かう過程が読み取れる。作風は、表現主義の流れをくむカンディンスキーの「熱い抽象」とはまったく対照的で、「冷たい抽象」と呼ばれる。水平と垂直の直線のみによって分割された画面に、赤・青・黄の三原色のみを用いるというストイックな原則を貫いた一連の作品群がもっともよく知られる。
 モンドリアンは、アムステルダム国立美術アカデミーにおいて、伝統的な美術教育を受けた。この頃から線描よりも色彩を重視する傾向が作風に現れている。アカデミー卒業後は次第にリアリズムを離れるようになり、印象派やポスト印象派、特にゴッホやスーラの影響を受けた画風に転ずる。この頃のモンドリアンは「色と線がそれ自体でもっと自由に語ることができるように」することを試みていた。
 1911年、アムステルダムにおける美術展でキュビスムの作品に接して深い感銘を受け、パリへ行く決心をする。1912年から1914年までパリに滞在し、ピカソやブラックが提唱するキュビスムの理論に従って事物の平面的・幾何学的な形態への還元に取り組む。その過程でモンドリアンは抽象への志向を強め、彼の考える「キュビスムの先」を目指すことになる。キュビスムの探求がもたらしたこの転機について、モンドリアンは「キュビスムは自らの発見がもたらす論理的帰結を受け止めていないことが、徐々にわかってきた。つまりキュビスムが展開する抽象化は、その究極の目標である、純粋なリアリティの表現へと向かっていないと思うようになった」と述べている。彼はそのリアリティの表現が純粋造形によってのみ確立され得ると感じ、より一層の表現の探求に向かうことになる。
 1917年にはドースブルフと共に芸術雑誌『デ・ステイル』を創刊。ここで彼らの唱えた芸術理論が「新造形主義」と呼ばれるものである。モンドリアンは1925年に『デ・ステイル』を去るまで、エッセイを寄稿するなどメンバーの一員として活動した。彼は宇宙の調和を表現するためには完全に抽象的な芸術が必要であると主張し、その創作は一貫して抽象表現の可能性の探求に向けられるようになる。極限まで幾何学化・単純化された海と埠頭や樹木の絵から、一切の事物の形態から離れた抽象絵画への移行が起こり、短く黒い多数の上下左右の線のみによる絵、三色からなる四角形の色面を様々な間隔で配置した絵など、様々な作品を試みた。この試行錯誤の時期から、作品には「コンポジション」の題が付けられるようになる。
 抽象表現の実験が続く中で、次第にモンドリアンの絵は黒い上下左右の直線と、その線に囲まれた様々な大きさの四角形の色面から構成されるようになる。色面の色の種類も青・赤・黄の三色に限定されるようになり(黒の色面があることもある)、作品によって三色全てかあるいは一色か二色のみが使われるようになる。こうして1921年、モンドリアンの代表作である、水平・垂直の直線と三原色から成る「コンポジション」の作風が確立された。
 モンドリアンは純粋なリアリティと調和を絵画において実現するためには、絵画は平面でなくてはならない(つまり従来の絵画のような空間や奥行きの効果は除かれねばならない)と考え、また自らの絵画こそ純粋なリアリティと調和を実現しうると考えていた。そのような作品を創るために、彼は作品ごとに構図を決めるにあたって苦心と試行錯誤を重ね、色むらやはみ出した部分の一切ない厳密な線や色面を描きあげるために細心の注意と努力を払っていた。そうした抽象画のモンドリアンを理解する人も多かったが、生活を支えるために淡い色調で描かれた植物(特に花)の絵を描いては売っていたという。またモンドリアンはキャンバスを45度傾けた(角を上下左右にもってきた)作品を創ったり、額縁を用いなかったりなど、描画以外の面でも様々な工夫を凝らした。
 1940年には激しくなりつつある戦火を避けてニューヨークに移住した。亡命してきたモンドリアンは一部で注目され、『フォーチュン』誌は亡命芸術家12人を特集した記事においてモンドリアンも取り上げ、タイポグラフィーやレイアウト、建築、工業デザインなど様々な商業美術に与えた影響の大きさを強調した。アメリカに移ってからのモンドリアンは上下左右の直線に黒以外の色も用いるようになり(それ以前にも直線のみの作品では黒以外の色を用いたこともあったが、色面と共に黒以外の直線を用いたのはニューヨーク時代以降である)、それをきっかけにしてモンドリアンの絵はより華やかに展開していくことになる。ニューヨーク時代の代表作『ブロードウェイ・ブギウギ』は、アメリカで初めて聴いたブギウギに触発されて描かれたものであり、上下左右の直線と三原色の原則に従いつつも、上下左右の直線は黄色になり、その直線の部分部分に赤・青・白の色面が数多く描かれるなど華やかな画面構成となり、完全な抽象絵画でありながら、画面からはニューヨークの街の喧騒やネオンの輝きさえ感じ取れるようだとする評者もいる。
 1942年、モンドリアンは生涯初の個展を開いた。1943年には『ブロードウェイ・ブギウギ』がニューヨーク近代美術館に購入されるなど、その作品に対する評価もようやく高まりはじめる。もっともモンドリアン自身はそれまでの自らの作品に満足することなく、目指す絵画を創り上げるために試行錯誤を続けていた。亡くなる少し前に彼は、自分の目標は次々に高くなるので、その実現に悪戦苦闘すると述べている。1944年、風邪をこじらせて肺炎となり、未完の『ヴィクトリー・ブギウギ』を遺してニューヨークで死去した。絵を平面として捉え、額縁を取り除き、何かの描写ではない一つのそれ自体として完成された表現としての絵を追求したモンドリアンの姿勢は、様々な変化を経つつ「抽象表現主義」や「ミニマル・アート」に受け継がれている。