2011年3月9日水曜日

Tamara de Lempicka








 タマラ・ド・レンピッカ(1898年~1980年)はポーランド生まれのアール・デコの画家である。彼女の個性的で大胆な作風は、ロートのソフト・キュビスム、ドニの総合的キュビスムの影響を受け、さらに急速な進化を遂げ、アール・デコ運動の冷ややかな一面と官能的な一面を統合させる。
 彼女について、ピカソは「統合された破壊の斬新さ」と語った。彼女は、印象派の画家の多くが下手に絵を描き、「汚い」色を使用していると考えていた。それに対して彼女のテクニックは、新鮮で、クリアで、正確で、エレガントだった。
 1925年、彼女は自画像を描く。『オートポートレート(緑色のブガッティに乗るタマラ)』がそれで、ドイツのファッション雑誌『ダーメ』の表紙を飾った。1974年、雑誌『オート・ジャーナル』では、この絵について、「タマラ・ド・レンピッカの自画像は、自己主張する自立した女性のリアルなイメージである。彼女は手袋をし、ヘルメットをかぶって、近づき難い。冷たく、心かき乱す美しさ、身震いさせられる——この女性は自由だ!」と。 
 狂騒の20年代、タマラ・ド・レンピッカは、パリでボヘミアン的な人生を送っていた。パブロ・ピカソ、ジャン・コクトー、アンドレ・ジッドとは知り合いだった。彼女の美貌、さらに彼女が両性愛者であることはよく知られていた。男性とも女性とも関係を持つことは、スキャンダラスで騒がれた。しばしば彼女は、自画像の中にストーリー性を持たせ、ヌードのスケッチは挑発的効果を生み出した。彼女は、ヴァイオレット・トレフーシス、ヴィタ・サックヴィル=ウェスト、コレットら、文壇・画壇のサークルに属したレズビアンおよび両性愛者たちと親しく交際した。さらにシャンソン歌手のシュジー・ソリドールと親密になり、後には彼女の肖像画も描いた。
 1939年から、タマラはアメリカで「長期休暇」を始めた。彼女はただちにニューヨークで個展を開いた。住まいに選んだのは、カリフォルニア州のビバリーヒルズで、ハリウッドの映画監督キング・ヴィダーの家の向かいだった。そして、ハリウッドスターのお気に入りの芸術家になった。ガルボのような仕草を身につけ、タイロン・パワー、ウォルター・ピジョン、ジョージ・サンダースといったスターたちのセットを訪問し、反対に仕事場を訪問されたりした。
 1941年頃の彼女の作品のいくつかは、サルバドール・ダリを思わせる。その後1943年、ニューヨークに居を移す。スタイリッシュな生き方を続けるが、この頃には画家としての名声はもはや失われていた。タマラは新しい作風を模索し始めた。描く対象を広げようと、静物画から抽象画まで手を出した。筆の代わりにパレット・ナイフを使ったりもした。1962年新作を出展したが好評は得られなかった。タマラは二度と作品を発表しないと決めプロ画家を引退した。しかし、絵を描くことは続け、時々旧作を新しいスタイルで描き直したりした。
 1970年代の人間は才能と「育ち」が欠如していて自分の芸術がわからないだの、不平をこぼしまくったが、全盛期の筆力と技巧を二度と取り戻すことはできなかった。1978年、タマラはメキシコに移住する。年老いた世界中の仲間と少数の若い貴族に囲まれて暮らすためだった。
 タマラは充分長生きすることができた。というのも彼女が死ぬ前に、流行の推移はすっかり一巡していたのである。若い世代がタマラの芸術を再発見し、熱烈に支持した。1973年の回顧展も大好評だった。彼女が死んだ時には、彼女の初期のアール・デコ絵画が続々と展示・販売された。彼女の人生にヒントを得た芝居『タマラ』はロサンゼルスでロングランされ、その直後、ニューヨークでも公演された。ジャック・ニコルソンは、タマラの作品をコレクションしている。2005年には、女優兼アーティストのカーラ・ウィルソンが、タマラの生涯に基づく一人芝居「Deco Diva」を演じた。

 マドンナもタマラの大ファンで、彼女の作品を集めており、イベントや博物館に貸し出したこともあった。マドンナは、『エクスプレス・ユアセルフ』、『Open Your Heart』のプロモーション・ビデオでタマラの作品を登場させ、そしてついに、冒頭にタマラの多数の作品をあしらった『ヴォーグ』のプロモーション・ビデオの衝撃は、タマラ・ド・レンピッカの世界的な大衆人気を不動のものにしたのである。

2011年3月5日土曜日

Art Déco

タマラ・ド・レンピッカ(女流画家)
カッサンドル(ポスター)


レイモン・サヴィニャック(商業デザイン) 


 アール・デコ(仏)とは、アール・ヌーヴォーの時代に続き、ヨーロッパおよびアメリカを中心に1910年代半ばから1930年代にかけて流行、発展した装飾の一傾向。原義は装飾美術である。
 幾何学図形をモチーフにした記号的表現や、原色による対比表現などの特徴を持つが、その装飾の度合いや様式は多様である。
 アール・デコは1925年に開催されたパリ万国装飾美術博覧会で花開いた。博覧会の正式名称は「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」(Exposition Internationale des Arts Decoratifs et Industriels modernes)、略称をアール・デコ博といい、この略称にちなんで一般に「アール・デコ」と呼ばれるようになった。また「1925年様式」と呼ばれることもある。
 キュビズム、バウハウスのスタイル、当時発掘が相次いだ古代エジプト美術の装飾模様、アステカ文化の装飾、日本や中国などの東洋美術など、古今東西からの様々な引用や混合が指摘されている。世紀末のアール・ヌーヴォーは、植物などを思わせる曲線を多用した有機的なデザインであったが、自動車・飛行機や各種の工業製品、近代的都市生活といったものが生まれた時代への移り変わりに伴い、世界中の都市で同時代に流行し、大衆に消費された装飾でもある。富裕層向けの一点制作のものが中心となったアール・ヌーヴォーのデザインに対し、アール・デコのデザインは一点ものも多かったものの、大量生産とデザインの調和をも取ろうとした。アール・デコの影響を受けた分野は多岐にわたり、広まった。
 アール・デコは、装飾ではなく規格化された形態を重視する機能的モダニズムの論理に合わないことから、流行が去ると過去の悪趣味な装飾と捉えられた。従来の美術史、デザイン史では全く評価されることもなかったが、1966年、パリで開催された「25年代展」以降、モダンデザイン批判やポスト・モダニズムの流れの中で再評価が進められてきた。