青騎士は、1912年にヴァシリー・カンディンスキーとフランツ・マルクが創刊した綜合的な芸術年刊誌の名前であり、またミュンヘンにおいて1911年12月に集まった主として表現主義画家たちによる、ゆるやかな結束の芸術家サークルである。日本語では「青騎手」とも訳される。
「青騎士」は、非常に短命であったが、その後世に与えた影響は大きく、青騎士と周辺の芸術家は20世紀における現代芸術の重要な先駆けとなった。
19世紀以前には、多様な主義主張がありながらも対象を客観的に描くという点では共通していた西洋絵画も、19世紀末になると、それまでの伝統を乗り越えようとする試みが現れた。ドイツ語圏では、当時のアカデミズムに支配されたサロンに反抗し分離派と呼ばれる芸術家グループもいくつか誕生した。これら分離派は同時代のヨーロッパ各地の芸術運動から影響を受けていた。
1905年、パリのサロン・ドートンヌに颯爽とフォーヴィスムが登場した。後期印象主義に影響を受けたマティスらは、対象をキャンバスの上に再現するのではなく、大胆な色彩によって鑑賞者の感覚に直接訴える絵を描こうとした。
同じころドイツでも、激しい色彩を用いて絵画の方向性を探る運動が始まっていた。これは表現主義とよばれ、フォーヴィスムや象徴主義の影響を受けて分離派よりもさらに前衛色を増し、ドレスデンのブリュッケや、本項で扱うミュンヘンの青騎士といったグループを中心に展開した。
青騎士主宰者の一人であるカンディンスキーは1909年1月、ヤウレンスキー、ミュンター、ヴェレフキンらとともに「ミュンヘン新芸術家協会」を結成し、会長に就いた。青騎士のもう一人の首班フランツ・マルクは、1910年9月に行われたその第二回展を見て感激し、直ちにヤウレンスキーとカンディンスキーのアトリエを訪ね、この協会に加わっている。この第二回展は、ミュンヘン在住の画家たちの作品のほかに、遠くパリからもピカソ、ブラック、ルオーら当時の前衛画家たちの絵が寄せられ、近代絵画国際展の観があったが、この展覧会に対する新聞や雑誌、大衆の評判は惨憺たるものであった。マルクは展覧会を批判した保守的な新聞や一般大衆との論争を開始し、1910年から『青葉』という雑誌の刊行を企画しはじめた。そこには、文化革新の幅広い基盤の上に立って行う芸術闘争という、青騎士の理念の先駆をなす考えが表れている。『青葉』は『青騎士』誌構想に発展的に吸収された。
1911年、ミュンヘン新芸術家協会の第三回展において、カンディンスキーの作品「コンポジションV」は、既定のサイズを超えているという口実によって出展を拒否された。すでに以前からカンディンスキーは、一部の協会メンバーと対立していたのである。これを機にカンディンスキーは、彼に同調したマルク、クビン、ミュンターとともに協会を去り、1912年にはヤウレンスキーとヴェレフキンも後を追った。
カンディンスキーとミュンターは1909年から一緒にムルナウに住み、近くのジンデルスドルフにはマルクとカンペンドンクが居を構えた。ミュンヘン新芸術家協会との諍いの後、カンディンスキーが協会を去った1911年から、カンディンスキーとマルクは協働して新たな芸術運動に精力的に取り組んだ。秋にはムルナウで年刊誌刊行のための編集上の相談と、その決定的な部分の準備作業とが行われ、同年冬には作品を選定して展覧会を開いた。
ムルナウのミュンターの家は土地の人々に「ロシア人の家」と呼ばれ、またたく間に青騎士の芸術家たちのたまり場となった。1912年にはカンディンスキーとマルクの編集によって年刊誌『青騎士』第一巻が刊行された。
カンディンスキーとマルクの他に青騎士に加わったのは、マッケ、ミュンター、ヴェレフキン、ヤウレンスキー、クビンだった。パウル・クレーは公認のメンバーではなかったが、青騎士に非常に親近感を持ち、作品を出品している。アルノルト・シェーンベルクのような作曲家??彼はまた画家でもあったが??も青騎士に参加した。青騎士を構成した芸術家たちは、中世や原始の芸術、そして同時代のフォーヴィスムやキュビスムといった芸術運動にともに関心を持っている点で結びついていた。
端的にいえば青騎士が目指したのは、それまで当然のこととされてきた「形象(フォルム)」へのこだわりを捨てて、すべての芸術に共通する根底を明らかにすることであった。フォルムの呪縛を乗り越えることには同時に、物質主義文明を克服する確固たる意志をも重ね合わされた。
マルクとカンディンスキーは、青騎士によって共同体が感覚として「硬い規定」を作り出したり特定の方向性を喧伝したりする新たな「芸術家の協会」を目指したのではなく、むしろ芸術表現の多様性を編集上の文脈の中で束ねることを考えた。この考えのもと2回の展覧会と年刊誌『青騎士』は企画された。
アウグスト・マッケとフランツ・マルクは、人間はみな芸術を通してともに結びつけられる内的および外的現実体験を持っているという見解を支持した。この考え方はカンディンスキーがその著書『芸術における精神的なもの』によって理論的基礎を固めたものである。カンディンスキーはそれを、芸術の「内的必然性」とよび、芸術作品は内側から鑑賞者に語りかけ、見る者はその声を聴くのだと訴えた。
青騎士はそもそも主義やイズムといった様式の確立を志向する集団ではなかった。従って属する芸術家どうしの間には、表現主義的であること以上の際立った共通点はない。彼らを結び付けていた要素は同時代のヨーロッパにおける芸術運動や中世の美術、プリミティフな美術・工芸への関心であり、また芸術家の内面を宇宙や世界、歴史といった客体と共振しようとするロマン主義であった。カンディンスキーが青騎士の時代を境に抽象的画風へと変化していったように、このロマン主義はしばしば反具象的傾向となってあらわれた。
【画像1】フランツ・マルク「青い馬の塔」1913年
【画像2】アウグスト・マッケ「明るい家」1914年
【画像3】ヴァシリー・カンディンスキー