2010年12月24日金曜日

アルフレッド・シスレー

シスレー
アルジャントゥイユのセーヌ河

アルジャントゥイユの広場
ルーヴシエンヌの庭ー雪の効果
ポール=マルリの洪水

朝の日差しを浴びるモレの教会

Alfred Sisley(1839~1899)
 フランスで活動をしたイギリス人の印象派を代表する画家のひとりである。他の印象派の画家たちのような強烈な個性は示さないものの、戸外制作による光と色彩豊かな都市や農村、河辺、田園などの風景画を生涯にかけて描き、バティニョール派(後の印象派)の中で確固たる地位を確立した。穏健な性格からか、評価を得たのは晩年ながら、現在では印象派の画家の中でも決して外せない主要な画家として広く認められている。写実主義の巨匠ギュスターヴ・クールベとバルビゾン派の画家カミーユ・コローやシャルル・フランソワ・ドービニーに強く影響を受けながら自身の画風を形成、その様式は生涯、大きく変化しなかった。
 パリ在住の裕福なイギリス人の商人の息子として生まれた為に国籍は英国であるが、生涯の大半をフランスで過ごす。1862年シャルル・グレールの画塾に入りクロード・モネ、エドガー・ドガ、ルノワール、フレデリック・バジールなどと出会い、彼らと共に1860年代はフォンテーヌブローの森やパリとその近郊などで制作活動をおこなう。
 またこの頃、カフェ・ゲルボワの常連となりカミーユ・ピサロ、ポール・セザンヌ、ギヨマンなどアカデミー・シュイスの画家とも交友を重ねるようになるほか、1867年にはサロンにも出品している。この時、シスレーは自らを「コローの弟子」と記している。  1870年、父の破産により長期の経済的困窮に陥る。1871年、パリ・コミューン(労働者階級による革命政府)を避けルーヴシエンヌに移住、同地のほかアルジャントゥイユ、ブージヴァル、ポール=マルリ、1874年に4ヶ月間滞在したイギリスなどで制作をおこない、同年には第1回印象派展に参加する。以後マルリ=ル=ロワやセーヴルに移り住みながら精力的に制作をおこなうものの、穏健で控えめな性格ゆえ積極的な売り込みはおこなえず、経済的困窮は続いていた。
 しかしカミーユ・ピサロを始めとした同派の画家らも認めるよう、シスレーは確かな技術と豊かな感受性・才能に恵まれており、モネやルノワールには及ばないものの晩年には高い評価を得ている。1899年、モレ=シュル=ロワンで没。享年60歳。

2010年12月23日木曜日

ベルト・モリゾ


モリゾ


マネの描いたモリゾ

ゆりかご
ワイト島のウジューヌ・マネ
夏の日


ニースの港
Berthe Morisot(1841~1895)
 フランスの印象派を代表する女流画家である。また同主義随一の女流画家としても重要視される画家の一人でもある。速筆的で大胆かつ奔放な筆触と、明瞭な色彩による絵画様式で、姉エドマなど近親者や身近な知人の人物画や風景画や静物画を制作した。特に女性特有の感受性で描かれる母と子、画家の娘などを画題とした作品は、男性の視点では見られない、繊細さと穏健さを醸し出している。また、モリゾが師事した同時代の大画家エドゥアール・マネの作品のモデルを度々務めるほか、同氏との師弟関係以上の恋愛的な感情を持っていたことも指摘されている。
1841年、ブールジュ市長であった父と、ロココ美術の巨匠「フラゴナール」の遠縁にあたる母の間に生を受ける。幼少期に姉エドマと共にジョゼフ=ブノワ・ギシャールの下で絵画を学びながら、ドビーニやギウメなどの作品に影響を受ける。その後、パリに出てバルビゾン派のジャン=バティスト・カミーユ・コローに学び、戸外で制作活動を始める。
 1864年にサロン初入選後、ルーヴル美術館で模写をおこなっている最中にサロン画家アンリ・ファンタン=ラトゥールの紹介で、エドゥアール・マネと出会う。マネに大きな感銘を受け、以後多大な影響を受けるほか、クロード・モネ、ルノワール、カミーユ・ピサロ、フレデリック・バジールなど、「バティニョール派」(後の印象派)の画家たちやエミール・ゾラなどの美術批評家と交友を重ねるようになる。彼らとの交友で次第に独自の様式を確立、その様式の完成は、師エドゥアール・マネの作風にも変化をもたらした。
1874年、エドゥアール・マネの弟ウジェーヌ・マネと結婚、4年後の1878年には娘ジュリー・マネが誕生。結婚後も第4回印象派展(1879年)以外の全ての印象派展に参加するなど精力的に作品制作をおこなう。1895年死去。 

2010年12月22日水曜日

フレデリック・バジール


バジール
横たわる裸婦
家族の集い
キャステルノー・ル・レズの村の眺め
夏の情景(水浴する男たち)
牡丹と黒人の女性

ラ・コンダミス街のバジールのアトリエ


Frédéric Bazille(1841~1870)

 フランスの初期の印象派の中で特に重要な画家のひとりである。故郷南仏のような強く輝く陽光と、その中に潜む、冷謐で繊細な陰影が織成す様々な色彩の特徴や効果を、独自の表現様式で捉え表現する。その類稀な画家の才能はクロード・モネに「あなたは非常に恵まれた才能を持つ、あらゆる条件を満たした画家であり、であるからこそ素晴らしいものを作らなければならない」と言わしめるほどであった。初期のバジールは、外光要因を強く意識した印象主義的表現が主体であったものの、20代後半から晩年期にはアカデミックな表現へと変化していった。
 1841年、フランス南部の都市モンペリエでワイン製造を営む裕福な名家の子孫として生まれる。同地で医者になるため医学を学び、さらなる医学の飛躍を求め、1862年パリへと赴く。パリでは医学を学びながらシャルル・グレールの画塾にも通い始める。このため高度な教育を受けたバジールは、印象派の画家の中でも特に頭脳明晰かつ博識の人物であった。
 1864年、医学試験に失敗し、絵画に専念する決意を固める。シャルル・グレールの画塾ではクロード・モネ、ルノワール、アルフレッド・シスレーと交友を重ね、彼らと共にフォンテーヌブローの森近辺やセーヌ河口の港町オンフルールで、戸外制作活動をおこなうほか、バジール同様、ロマン主義を代表するドラクロワに強く影響を受けたポール・セザンヌと知り合い、アカデミー・シュイスで学んでいたセザンヌを通じ、カミーユ・ピサロやギヨマンなどとも出会う。
 フレデリック・バジールは男的友情に厚く寛大な人柄でも知られ、グレール画塾出身の画家たちと、アカデミー・シュイス出身の画家らを結びつけた画家としても、印象派の形成を考察する上で極めて重要視される。
 また女流画家「ベルト・モリゾ」との交友も特筆に値する。1865年、モネと共にフュルスタンベール通りへアトリエを移す。同年、写実主義の巨匠ギュスターヴ・クールベがバジールのアトリエを訪問。
 以後ルノワールなどともアトリエを共有しながら、モンペリエのバジール家邸宅とパリのアトリエを行き来しながら制作活動をおこなう。
 1867年、ギュスターヴ・クールベやジャン=バティスト・カミーユ・コローなどと自主的な展覧会の開催を計画した。
 1870年の普仏戦争に志願し、同年10月28日、ビュルギュンディ地方ボーヌ・ラ・ロランドで戦死する。享年29歳。バジールの死は、他の印象派の画家らに多大な衝撃を与えた。 

2010年12月21日火曜日

アンリ・ファンタン=ラトゥール

ラトゥール

カフラ、花、果物のある静物画
ドラクロワ礼賛
デュブール家の人々
薔薇のある静物

シャルロット・デュブール


Henri Fantin-Latour(1836-1904)
19世紀フランスで活躍したサロン画家である。過去の偉大な巨匠らなど、古典に倣う写実的表現と洗練された調和的な色彩描写で、人物画(肖像画)、集団肖像画、静物画、風景画などを手がける。特に対象の内面や性格に肉薄する肖像表現や、理知的な静物画はサロン(官展)などで高い評価を得た。
またエドゥアール・マネやクロード・モネ、ルノワール、フレデリック・バジールなど印象派の画家らとも親しく、彼らが取り組んでいた伝統的な絵画表現への挑戦には、理解を示していた。ただし印象主義的な表現には否定的であったといわれる。
敬愛していた写実主義の巨匠「ギュスターヴ・クールベ」のアトリエでも、制作をおこなっている。またこの頃、ルーヴル美術館で「ティツィアーノ」や「ヴェロネーゼ」などルネサンス期のヴェネツィア派の作品、「レンブラント」や「フェルメール」「フランス・ハルス」「ピーテル・デ・ホーホ」「ヴァン・ダイク」など、17世紀フランドル・ネーデルランド絵画、「アントワーヌ・ヴァトー」や「ジャン・シメオン・シャルダン」を初めとした、ロココ期の絵画を模写し、これらの作品から多くのことを学ぶ。
また、ロマン主義の大画家「ウジェーヌ・ドラクロワ」やバルビゾン派の画家「カミーユ・コロー」などの作品に強く惹かれる。
さらに「ヴェロネーゼ」の代表作『カナの婚礼』を模写中に英国で活躍したアメリカ人画家「ジェームズ=アボット=マクニール・ホイッスラー」と出会い、長く交友関係を築くことになる。後に画家は、ホイッスラーと共に「三人会」を結成している。
英国へ旅行中、同地で花の静物画で成功を収める。1861年にサロン初入選するものの、当時、画家はカフェ・ゲルボワに通い続け、小説家兼批評家のエミール・ゾラと、その友人であった「マネ」「モネ」「ルノワール」「バジール」など、印象派の画家らと知り合い、彼らのアカデミズムへの挑戦に高い共感を持つ。またこの頃、ルーヴル美術館で模写をおこなっていた女流画家「ベルト・モリゾ」にマネを紹介。両者を引き合わせる。 1864年に『ドラクロワ礼賛』を、1870年に『バティニョールのアトリエ』をサロンへ出品、一部からは否定的な意見も受けたが、殆どの批評家や民衆から高い支持を得る。 その後、数多くの肖像画や静物画を制作するが、印象主義の台頭によって人気に陰りが見えるようになった。

晩年期にはロマン主義的な傾向を示し、同主義の感覚が色濃い作品を手がけるものの、1904年にビュレの別荘で死去。なお画家は音楽愛好家としても知られており、同時代を代表する作曲家リヒャルト・ワーグナーやベルリオーズのオペラを画題とした絵画作品を残している。 

2010年12月20日月曜日

エドゥアール・マネ

マネ
草上の昼食(1862)
オランピア(1863)
笛吹く少年(1866)
エミール・ゾラの肖像(1867)
バルコニー(1868)


すみれのブーケをつけたベルト・モリゾの肖像(1872)
フォリー=ベルジェール劇場のバー(1881)
Edouard Manet(1832-1883)
フランスの印象派の先駆的画家である。筆跡を感じさせる流動的な線と伝統的な形式にとらわれない自由で個性的な色彩を用い、近代の日常、風俗、静物、歴史、肖像、裸婦、風景など様々な画題を描く。また後に、印象派らの画家らとの交友を深めると、自身の表現手法にその技法を取り入れるほか、当時流行していた、
日本の浮世絵・版画から太く明確な輪郭線描の影響を受けた。マネの画業は1850年、サロンの第一線で活躍していた画家トマ・クテュールの画塾で7年間に入ることからに始まり、そこでルーヴル美術館などが所蔵する古典的絵画に触れ、それら現代化する表現を会得。
1863年のサロンに出品された『草上の昼食』、1865年のサロンに出品された『オランピア』で実践するも、スキャンダラスな問題作として物議を醸す。しかしこれらの事件によってクロード・モネ、ドガ、ルノワール、シスレー、バジールなどシャルル・グレールの画塾で学んだ画家らと、ピサロ、セザンヌ、ギヨマンなどアカデミー・シュイスで絵画を学ぶ画家らによって形成される前衛的で伝統破壊的な若い画家集団≪バティニョール派(後の印象派)≫に先駆者と見なされ、慕われるようになる。
またサロン画家アンリ・ファンタン=ラトゥールや文学者ゾラ、詩人ボードレール、女流画家ベルト・モリゾなどとも交友を重ねる。バティニョール派の画家が1874年からサロンに反発し開催した独自の展覧会(印象派展)への出品を画家も熱心に誘われるも、マネは「サロンこそ世間に問いかける場」との考えから出品を拒み続けた。なお都会に生まれた画家は洗練された趣味や思想、品の良い振る舞いを身に付けており、外出時は必ずシルクハットを被り正装したという逸話も残されている。 

2010年12月19日日曜日

ジャン=バティスト・アルマン ギヨマン

ギヨマン


イヴリーの夕暮れ

ベルシー河岸・雪の印象

裸婦

釣り人たち

アゲーの眺め

Jean-Baptiste Armand Guillaumin(1841~1927)
 印象主義時代に活躍した同派を代表するフランス人画家である。主に風景画を手がけるが裸婦像や静物画も制作している。ギヨマン作品の大半の画題は、パリとその近郊での都市景観や労働者にもたらされた近代性、田舎や荒野的風景、家庭的情景の三つに分類することができる。
 様式は初期の印象主義的表現に始まり、ジョルジュ・スーラ、シニャック、フィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・ゴーギャンなど新印象派や後期印象派らの画家たちとの交友を経た後、後期から晩年にかけては色彩の鮮明性と装飾性が際立つようになり、その大胆な色彩の使用による独自的な様式は、アンリ・マティスなどフォーヴィスム(野獣派)の画家らの先駆となった。またギヨマンは印象派の画家の中では最も長命であり、20世紀を生きた最後の印象派の画家としても知られている。
 1841年パリで生まれ学生の頃に後の有力な美術収集家ミュレやウータンと出会う。15歳の時に叔父が営む服飾店に勤めながらパリ市内の夜間の写生学校に通う。1860年、パリ=オルレアン鉄道に転職。翌年、余暇にアカデミー・シュイスで絵画を学び始め、カミーユ・ピサロ、ポール・セザンヌと出会うほか、夜に絵画を制作し始めるようになった。
 1863年には落選者展に絵画を出品、この頃にはカフェ・ゲルボワの常連となっている。1866年、パリ=オルレアン鉄道を退職しピサロと共に、戸外制作に取り組むが、画業で生計を立てるも成功せず、再びパリ市の土木課に就職、橋や道路を管轄する管理職に就く。この仕事は当時の社会の底辺的な仕事であったが夜間のみの勤務であった為に、ギヨマンは日中、絵画制作に取り組むことができた。
 1874年の第一回印象派展に参加、以後、同派の絵画展に6回参加する、が同展では当初はエドガー・ドガやクロード・モネに拒否されるもピサロが擁護し事なきを得た。
 またこの頃、若きシニャックに出会う。その後、独立派展、アンデパンダン展などに参加しながら制作を続ける日々が続くも、1891年、宝くじに当選。10万フランの大金を手にし生活にゆとりが持てるようになると仕事を辞め、絵画制作に専念するようになる。  1890年代から晩年はクローザンに移住し、個展の開催やオランダに2ヶ月滞在しながら制作をおこなうが、1920年頃からは創作力が激減。1927年、生地であるパリで死去。享年86歳であった。 

2010年12月18日土曜日

テオドール・ジェリコー



自画像
突撃する近衛兵将校
メデュース号の筏
エプソムの競馬

Jean Louis André Théodore Géricault(1791~1824)                           

 フランス・ロマン主義を代表する画家のひとりである。同主義の先駆的存在としても知られる。確かな写実的描写力に裏打ちされた、厳しく劇的な明暗対比による光の表現や、激しさや感情の瞬間を捉えた躍動的な運動性、ドラマティックな場面展開などの表現を用いて、人物画、歴史画、事件的主題、風景画、動物画などを制作した。画家の歴史画・事件的主題の作品の中に表現されることは、ロマン主義の大きな特徴である。死や病への態度、狂気性、異常性、叙情性は、後世の画家らにも大きな影響を与えた。特に、公開時に物議と賛否を巻き起こした『メデュース号の筏』や馬を描いた作品で名高い。
 1791年、パリで生まれ、当時、非常に人気の高かった動物画家カルル・ヴェルネの工房に入り絵画を学ぶ。その後、新古典主義の画家ピエール=ナルシス・ゲランの教えに習いオルレアン美術館(現ルーヴル美術館)で新古典主義の巨匠ジャック=ルイ・ダヴィッドの作品や、ルネサンス期ヴェネツィア派の大画家ティツィアーノ、カラヴァッジョ、ベラスケス、ルーベンス、ヴァン・ダイクなど過去の巨匠らの模写をおこない、激しい明暗法による劇的で写実的な表現による自身の様式を確立した。
 1816年ローマ賞へ応募するも落選、翌年、自費でイタリアへと向かい、ローマとフィレンツェでミケランジェロの肉体表現に大きな影響を受ける。1817年に帰国し、1818年から1819年までは『メデュース号の筏』の制作に没頭。同作品をサロンへ出品するも「政治批判の暗喩が示される」など(賞賛の声も多かったが)批判的な意見を多々受けるほか、政治的圧力を受ける。それは『メデュース号の筏』が人目に触れぬよう、ルーヴル美術館が意図的に買い取って作品を隠蔽した。そのことに失望したジェリコーは、1820年から2年間ロンドンへ渡り同地で制作活動をおこなうことのなる。
 1822年、落馬により障害を負い、1824年それによりわずか33歳という若さで夭折した。なお画家のロマン主義な表現は、同派の偉大な画家ウジェーヌ・ドラクロワにも影響を与えた。

★代表作「メデュース号の筏 (Le radeau de la Méduse)」 (1818~1819)
 フランス絵画史上、最も陰惨な場面を描いた作品のひとつ『メデュース号の筏』。1819年のサロンへ『遭難の情景』という題名で出品された本作は、出品される3年前の1816年のフランス海軍所属フリゲート艦メデューズ号が、フランスの植民地セネガルへ移住者らを運ぶ途中に、アフリカ西海岸モロッコ沖で実際に起こった座礁事故による、搭乗者の遭難に関する事件を描いた作品である。座礁したメデューズ号には、救命ボートが搭載されていたものの数が足りず、船員以外の人々はその場で拵えた筏で脱出せざるを得ない状況あり、女性1名を含む150名もの人々を乗せた筏は漂流し続け、13日後に発見されるが、発見時には生存者がわずか15名となっていた。その間、筏は飢餓や暴動、殺戮、そして人食喰いなど、筆舌し難いほどの狂気的で極限的な状況にあったこともあり、当時のフランス政府は事件を隠蔽したが、生存者2名が、この一連の事件とその凄惨な状況を綴った書籍を出版したことによって公になり、王党政治(君主制)に不満を募らせていた世論を巻き込んで大騒動となった。この事件を知った画家は大きな衝撃を受けて、本作の制作に踏み切り、サロンで公開するものの、この事件そのものが大きな政治的な問題を含んでいた為に、賛同・批判様々な意見が噴出した。
 なお1820年に、政治的な関わりのないロンドンで公開された際には概ね好評を得た。本場面は筏に乗ったメデューズ号の搭乗者が、自分らにはまだ気づいていない船の影を、海上の遥か彼方に発見した瞬間であるが、この凄惨な事件を実際に目撃していたかのような現実味に溢れた表現は、単に入念な構想を練り習作を積み重ねるだけでなく、事件の当事者・生存者への聞き込みや、死とすぐ隣り合わせに置かれる、又は死に直面した人間の正確な描写をおこなう為に、病院へ入院している重篤患者をデッザンするほか、パリの死体収容所の死体をスケッチするなど、場面の臨場感と現実感を追及するために、ジェリコーは、画家としてできる様々な取材をおこなったと伝えられている。
 画面最前景に死した搭乗者の姿を配し、後方の画面奥へと向かうに従い、生命力の強い生きる力の残る者を配している。これは死した搭乗者の姿を絶望や諦念と、海上の彼方に船を発見した者を希望と解釈することもできるほか、人物の配置によって表れる三角形による一種のヒエラルキーの形成しているとも考えられる。
 さらに三角形の頂点に立つのが黒人であることも、画家が抱いていた反奴隷主義的思想の表れであると理解することができる。また表現においても、衝撃的でありながらモニュメンタルな壮大性や象徴性、男らの姿態を痩せ衰えた姿ではなく、古典芸術に基づいた肉体美に溢れる姿で表現するなど、ひとつの絵画作品として特筆すべき点は多い。
 なおドラクロワも画面下部の横たわる男のモデルとして本作の制作に参加している。







2010年12月17日金曜日

ウジェーヌ・ドラクロワ

 

 

 





Fedinand Victor Eugene Delacroix(1798~1863)

 フランス・ロマン主義最大の巨匠である。色彩の魔術師と呼ばれたほど「色彩表現」に優れ、輝くような「光と色彩の調和による対象表現」や、荒々しく劇的でありながら内面的心象を感じさせる独自の場面展開で、文学的主題、歴史画、宗教画、肖像画、動物・狩猟画、風景画、静物画などあらゆるジャンルの作品を制作した。
 自身は孤高の存在であったが、当時の西欧全体に広がりつつあった「ロマン主義」や新様式の先駆として注目された。特に画家が見出した影の中に潜む色彩は、ルノワールなど「印象派」を始めとした後世の画家たちに多大な影響を与えた。
 1798年、裕福な政治家の家に生まれ、1817年から「新古典主義」の画家であったピエール=ナルシス・ゲランのアトリエで絵画を学ぶほか、同アトリエでロマン主義を代表する画家のひとり「テオドール・ジェリコー」と知り合う。1822年、『ダンテの小船(地獄の町を囲む湖を横切るダンテとウェルギリウス)』でサロン初入選後、『キオス島の虐殺(1824年)』、『サルダナパロスの死(サルダナパールの死)(1827年)』など数々の問題作をサロンで発表し、入選、落選を繰り返すが、これらの作品は、画家が他のロマン主義者たちから注目を浴びる大きな要因となった。
 1832年、モロッコ・ナイジェリアなど北アフリカへの旅行に参加し、同地の強烈な陽光によって表れた「光と色彩の重要性」を発見する。また同地で手がけた無数のクロッキーや水彩画は、フランス美術史の中でも重要視されている。帰国後、『アルジェの女たち(1834年サロン出品)』など北アフリカに典拠を得た作品を次々と制作、同作は国家買い上げとなる。以後、大規模な装飾壁画の仕事や、万国博覧会で大きな成功を収める。晩年は重病におかされるなど健康を著しく悪化させ、1863年パリで死去。
なお「新古典主義」最後の巨匠「ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル」による≪線≫と、ドラクロワによる≪色彩≫は当時大きな対立論争となった。そしてアングルは「私はこの愚かな世紀と決別したい。」と述べた。しばしば劇的な画面構成と華麗な色彩表現は、数多くの画家たちに影響を与えた。

画像上から
・「ドラクロワ」
・「キオス島の虐殺」1823
・「墓場の少女」1824
・「民衆を導く自由の女神」1830
・「アルジェの女たち」1834
・「モロッコのスルタン」1845
・「自画像」1837