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Jean-Baptiste-Camille Corotは、19世紀のフランス美術界の中で最も優れた風景画家のひとりである。銀灰色を帯びた鈍色に輝く抑制的な色彩・色調を用いて独自の風景様式を確立した。繊細な写実性の中に、抒情詩的な情緒性を感じさせる風景表現は、当時、絶大な人気を博した。
また、ピエール=オーギュスト・ルノワールやカミーユ・ピサロ、ベルト・モリゾなど印象派の画家たちに多大な影響を与えた。フランス各地を描いた風景画が主な作品であるが、人物画(肖像画)や神話・宗教的主題でも優れた作品を残している。
1796年、パリでラシャ商を営む裕福な家庭に生まれ、典型的なブルジョワ階級層でった。1815年、父の意思により後継ぎとして織物問屋に見習いとして勤めるが、画家になる夢を諦めることができなかったコローは、夜間アカデミーシュイスに通う。1822年、両親の説得に成功し、画家として生きることを認められる。
その後、パリ近郊バルビゾンやフォンテーヌブロー、ブルターニュなど、フランス各地を写生旅行する。その間、数回イタリアに旅行し自身の作風を広げる。
またサロンへと度々出品し、自然に即した風景画家として次第に注目を集めるようになる。1847年、ロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワがコローのアトリエを訪問したこともあった。1850年頃から、夢想的な雰囲気を強く感じさせる独自の様式が顕著に示されるようになる。1855年、パリ万国博覧会の美術展で最高賞グランプリに輝く。晩年期まで精力的に制作活動をおこなうほか、1864年にはサロンの審査員にも就任する。
1875年、パリで死去。コローはオノレ・ドーミエなど貧しい画家らにも積極的に支援をおこなっており、多くの画家たちから慕われていた。
活動時期が他の印象派の画家よりも早いため、写実主義、つまりバルビゾン派の画家とされる事が多いが、19世紀の4分の3を生き、次世代の「印象派」との橋渡しをした画家である。
画像上から
・「コロー」
・「真珠の女」
・「青い服の婦人」
・「ナポリの浜の思い出」
・「ヴィル・ダウレー」
・「網の引き上げ」
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