2011年10月30日日曜日

Oskar Schlemmer

オスカー・シュレンマー

バウハウスの階段



トリアディック・バレエ


 オスカー・シュレンマーは、ドイツの芸術家、彫刻家、デザイナーでバウハウスの教員であった。1923年にバウハウスシアターワークショップの造形主任として雇われた。
 1920年より9年間バウハウスの教員としてつとめ、主要なメンバーの一人として影響を与えたが、ナチスの台頭により彼の作品は廃退的であるとみなされその職を解任させられている。 
 ニューヨーク近代美術館(MoMA)に所蔵されている代表作、絵画「バウハウスの階段」が示すように、20世紀前衛芸術を代表する芸術家である。
 初期の彫刻工房を主宰しながら、人体の動きや組成を分析し、思考や感情に内在する原理を、新しくとらえなおした画期的な人間工学的授業「人間」を行なった。彼の作品の理論にあるものは「純粋な抽象化の拒絶」であり、それは人間性を残した抽象化、かといって感情的な表現ではなく、人間を物理的な側面から追求したデザインである。
 最も有名な作品であるトリアディック(トリアディッシュ)・バレエ(das Triadische Ballettは、1922年にシュトゥットガルトで初演され、その後も話題をよんだ。彼は、その間に絵画理論をはじめ、劇場という総合的演技空間から多くの示唆を受けて、ダンスにおける抽象化の理論化(アブストラクト・ダンス理論)を実践した。 そこでは、シュレンマー自身が、振り付け、衣装、舞台美術、音楽など、すべての創作と監修、統合を行なった。シュレンマーのバレエに秘められている、未来へのメッセージ、その魅惑的な謎はいまだに解けてはいない。今日バウハウスを機能主義一辺倒の生産工房としてとらえる見方から離れて、ダダ的な、祝祭的な要素、シュルレアリズムへの影響や先駆、有機的で、そして何より、地球環境的な芸術志向を、バウハウスが持っていたことが注目されている。

2011年10月12日水曜日

Bauhausについて



1919年、建築家ワルター・グロピウスが構想してワイマールに設立した学校である。同地にあった美術学校と工芸学校を合併し、新時代へ向けての工芸、デザイン、建築の刷新を図ろうとしたもので、以後、33年にナチス政権によって閉鎖に追い込まれるまで、近代デザインや近代建築の諸問題が検討され、豊かな実りをあげた
工業生産のなかでのデザイン、機能主義に立脚した建築などへの方向づけが、バウハウスを拠点にして示されたことが大きくあげられるが、バウハウスの理念はかならずしもこうした意味での近代主義に偏っていたのではなく、今日もなおそこに立ち返らなければならないデザインの基本的な活力をあわせもっている。
デザインや建築を総合的に把握しようとしたグロピウスの教育方針に基づいて、イッテン、ファイニンガー、クレー、シュレンマー、カンディンスキーらの芸術家がバウハウスにかかわったことが大きな特色としてあげられる。
彼らは側面からではあったが、バウハウスのデザイン理念を肉づけするために貢献した。開校当初は手業による工芸学校的な要素が強かったが、しだいに本来の軌道に入り、1923年には「芸術と技術:新しい統一」というテーマでバウハウスの成果を世に問うことになった。23年に定められた教育課程によれば、学生はまず予備課程において半年の基礎的な造形訓練を受け、木工、木石彫、金属、陶器、壁画、ガラス絵、織物、印刷の各工房へ進む。ここで学生は芸術家から造形の理念を学び、一方で技術者から、より実際的な技術を修得するというシステムがとられた。各工房で3年の課程を経たのち、すべてを統括する建築課程へ進むことになる。
この年、多才な造形家モホリ・ナギがバウハウスに迎えられ、教師の陣容もいっそう整えられた。しかし不運にもこのころワイマールに経済不調があって国立バウハウスの経済的基礎が崩れ、25年には反動的な政府の圧迫から閉鎖のやむなきに至り、デッサウ市の招きで市立バウハウスとして再編された。
デッサウのバウハウスではワイマール期の卒業生アルベルス、バイヤー、ブロイヤーらが新たに教員スタッフに加わり、それぞれの工房も飛躍的に充実した。この時期、新しい生産方式に基づいたデザインのあり方が追求され、また工房の作業は産業界と実際に連携して成果があった。グロピウス設計によるバウハウスの校舎(1926)は、工業時代特有の構造と機能美の統一によって、デッサウ期のバウハウスの精神を象徴的に語り出している。
1925年からはバウハウス叢書の刊行が始まり、幅広いデザイン思考の形成に寄与した。ここにはオランダの「デ・ステイル」派やロシアのマレービチの著作も含められ、バウハウスがもっていた国際的なつながりを知ることができる。
28年、いちおうの役割を果たしたグロピウスが退陣し、ハンネス・マイヤーが校長となった。マイヤーは、バウハウスのなかにあった形式主義的な一面を批判し、民衆への奉仕がデザイン本来の仕事であることを強調して新しい道筋を切り開こうとしたが、デッサウ市との対立で30年にバウハウスを離れた。その後バウハウスはミース・ファン・デル・ローエに引き継がれ、32年にナチスの弾圧でベルリンに地を移したのち、この私立バウハウスも33年には完全に閉鎖された。
しかし、バウハウスの精神は亡命した教師、卒業生によって継承された。とくにグロピウスとブロイヤーが教えたハーバード大学建築学部、モホリ・ナギが設立したシカゴのニュー・バウハウス(インスティテュート・オブ・デザインを経てイリノイ工科大学デザイン学部に合併)など、アメリカのデザイン教育に及ぼした影響は著しい。またドイツではバウハウスの卒業生マックス・ビルによって1955年にウルム造形大学が開かれ、新たに再出発した。
日本のデザイン界も水谷武彦、山脇巌・道子夫妻の留学以来、バウハウスから多くを吸収して今日に至っている。さらに、デッサウの校舎も復原され、ベルリンのバウハウス資料館ともども、バウハウス再評価がいつの時代にも必要であることにこたえようとしている。なお、ワイマールとデッサウのバウハウスとその関連遺産は1996年に世界遺産の文化遺産として登録されている