バジール |
横たわる裸婦 |
家族の集い |
キャステルノー・ル・レズの村の眺め |
夏の情景(水浴する男たち) |
牡丹と黒人の女性 |
ラ・コンダミス街のバジールのアトリエ |
Frédéric Bazille(1841~1870)
フランスの初期の印象派の中で特に重要な画家のひとりである。故郷南仏のような強く輝く陽光と、その中に潜む、冷謐で繊細な陰影が織成す様々な色彩の特徴や効果を、独自の表現様式で捉え表現する。その類稀な画家の才能はクロード・モネに「あなたは非常に恵まれた才能を持つ、あらゆる条件を満たした画家であり、であるからこそ素晴らしいものを作らなければならない」と言わしめるほどであった。初期のバジールは、外光要因を強く意識した印象主義的表現が主体であったものの、20代後半から晩年期にはアカデミックな表現へと変化していった。
1841年、フランス南部の都市モンペリエでワイン製造を営む裕福な名家の子孫として生まれる。同地で医者になるため医学を学び、さらなる医学の飛躍を求め、1862年パリへと赴く。パリでは医学を学びながらシャルル・グレールの画塾にも通い始める。このため高度な教育を受けたバジールは、印象派の画家の中でも特に頭脳明晰かつ博識の人物であった。
1864年、医学試験に失敗し、絵画に専念する決意を固める。シャルル・グレールの画塾ではクロード・モネ、ルノワール、アルフレッド・シスレーと交友を重ね、彼らと共にフォンテーヌブローの森近辺やセーヌ河口の港町オンフルールで、戸外制作活動をおこなうほか、バジール同様、ロマン主義を代表するドラクロワに強く影響を受けたポール・セザンヌと知り合い、アカデミー・シュイスで学んでいたセザンヌを通じ、カミーユ・ピサロやギヨマンなどとも出会う。
フレデリック・バジールは男的友情に厚く寛大な人柄でも知られ、グレール画塾出身の画家たちと、アカデミー・シュイス出身の画家らを結びつけた画家としても、印象派の形成を考察する上で極めて重要視される。
また女流画家「ベルト・モリゾ」との交友も特筆に値する。1865年、モネと共にフュルスタンベール通りへアトリエを移す。同年、写実主義の巨匠ギュスターヴ・クールベがバジールのアトリエを訪問。
以後ルノワールなどともアトリエを共有しながら、モンペリエのバジール家邸宅とパリのアトリエを行き来しながら制作活動をおこなう。
1867年、ギュスターヴ・クールベやジャン=バティスト・カミーユ・コローなどと自主的な展覧会の開催を計画した。
1870年の普仏戦争に志願し、同年10月28日、ビュルギュンディ地方ボーヌ・ラ・ロランドで戦死する。享年29歳。バジールの死は、他の印象派の画家らに多大な衝撃を与えた。
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